仕方アルマジロ

大学生活の記録

『武田勝頼 日本にかくれなき弓取』所感

 先日、『武田勝頼 日本にかくれなき弓取』(笹本正治, 2011年2月10日, ミネルヴァ書房)を読了したので、その所感をここに述べておこうと思う。

 この本はその表題通り、武田信玄の息子で家督を継いだ四男の勝頼についての学術書であるのだが、以前の記事で所感を述べた『武田信玄 芳名天下に伝わり人道寰中に鳴る』と同一の著者による作品であるため、内容の構成が似通っていて読みやすかった。

 

 私がこの一冊を読み通して気付かされたのは、今まで如何に私の中に「甲陽軍鑑史観」が染み付いていたかということであった。

 「甲陽軍鑑史観」とはすなわち、その名の通り歴史書甲陽軍鑑』の内容に影響された、武田家についての歴史観である。その内容は、信玄の時代に最盛期を迎えていた武田家が、継承した勝頼の失策によって衰退し、最終的に滅んでしまったという筋書きになっており、またそれに説得力を持たせるためにか、勝頼はその若い頃のエピソードなども交えて、武勇には優れているが、思慮の浅い人であるように描くものである。

 また、勝頼が高遠の領主であった頃からの家臣と、甲府の信玄旧臣との間に相容れない空気があり、両者を取り纏めることに勝頼が苦労したであろう事実を受けてか、甲陽軍鑑の中では跡部勝資をはじめとする高遠時代からの勝頼の家臣を奸臣として描いている。

 これまで『新編武田二十四将正伝』(平山優, 2009年11月3日, 武田神社)など、甲陽軍鑑にソースとしての重きを置いた本を読んでいた私は、その本の中で直接勝頼が批判されていたわけではないものの、引用の記述内容に影響されてか、上記のような「甲陽軍鑑史観」がいつの間にか根付いており、あまり勝頼を好きになれずにいた。

 

 しかし勝頼の実際の行動を、当時の情勢を元に分析すると、それほど非合理的な判断をしているようには思えないことや、勝頼の教養を伺わせるような内容の文書が存在することを見ていくと、甲陽軍鑑で描かれるほど、勝頼は知略に弱い人物では無かったことが分かるのである。この本ではそのようにして勝頼の行動を分析・擁護していた。

 例えば謙信死後の上杉家の跡目争いである御館の乱の際に、勝頼を当主とする武田家は、小田原の北条氏と同盟関係にあったにも関わらず、北条氏康の息子であり、謙信の養子となっていた上杉景虎ではなく、謙信の甥にあたる景勝を支援したため、北条家との同盟関係にひびが入ってしまった。

 これについて、勝頼の外交における失策であるという批判的な言説も存在するのであるが、仮に景虎が勝利した場合、北条氏が関東から越後までを領有することになり、国力で武田家を圧倒することになるので、同盟関係の均衡が崩れることを考え、それを避けるために勝頼は景勝を支援したのではないかと、この本の中では説明されており、非常に納得させられた。

 ちなみにこの言説については、同じようなことを、この本を読んだわけではない大学の同期の友人が少し前に仮説として立てていた。そのようなレベルの高い知識と思考力を持つ友人と共に学べる私の大学の環境を、改めて喜ばしいと感じさせられるばかりである。

 

 この本を読んで以降、私の中での勝頼のイメージは、甲陽軍鑑史観的な武力一辺倒の人物というものから、信玄の嫡子であり、兄でもあった義信の死を受けて、急遽家督を継ぐことになった困難な状況の中で、できる限りの知略を働かせて頑張り抜いたが、最後は虚しくも織田徳川という時代の趨勢の前に敗れ去った、優秀で憐れな人物というものに変わった。

 私は実はこの本を読む前から、少々勝頼についてのイメージが改善していたのであるが、それは昨年2019年の12月4日、5日にかけて甲州街道に再び旅立ち、最終日に勝頼最期の地である日川渓谷の田野を訪れ、その道中の史跡の数々で勝頼の苦悩と踏ん張りの形跡に触れてきたからである。そして、その旅行を経て私は勝頼に更なる興味を持ち、この本を読むに至ったというわけなのだ。

 その甲州旅行の際の旅行記も後々執筆しようと考えているが、既に私の怠け癖によってかなりの数の旅行記が未だ書けずに溜まってしまっているので、当分先になるかもしれないことを平にご容赦いただきたい。

 

 私は武田家に関しては大学入学以降それなりに集中して勉強し、ひと段落ついた気がしたので、この辺りで暫く打ち止めにし、他の分野にリソースを割こうかと考えている。

南信州限界旅行記 2日目 是より南木曽路

 以前の記事に引き続き、私が2019年8月に行った長野県南部の旅行記を書き進めていこうと思う。今回の記事で纏めるのは旅行の二日目、8月10日の行程である。

 

 前日から塩尻市内の「すがの旅館」に宿泊していた私は、朝一番で宿を出発し、木曽路を目指して南下を開始した。明るくなってから改めて見ると、宿の外は一面に葡萄棚が広がっており、中山道の道筋へ戻るまでの道中では、みずみずしい葡萄の実った景色を存分に楽しむことが出来た(下写真の上二枚)。朝食は確か宿で済ませたように記憶している。

 この一帯は「桔梗が原」という、奈良井川によって形成された広大な扇状地であり(『中山道69次を歩く』, p.80, および推測)、故に水はけがよく、葡萄の栽培に適しているようである。

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 私は平出遺跡の交差点から、再び旧中山道の道筋へと戻った。その交差点の南西側、開けた耕地の中にぽつんと立った小高い盛り土と、その上に生えた一本の木立こそが、旧中山道、平出の一里塚である。隣接する道を挟んだ民家の陰にも同様の塚があるが、このようにかつてのように旧道の両側に塚の遺構が残されているのは、塩尻市内ではここだけのようだ(出典:現地の案内板)。

 この一里塚は私が今まで見て来た中で最も保存状態が良いように感じられたので、私は嬉しくなり、昔の旅人の真似事をしてこの木立の下の日陰で暫く休憩をした。

 現地の案内板には、かつて中山道塩尻峠ではなく、より南側の牛首峠を通っていたが、1614年にそれが修正されたことが記されていた。根拠のない憶測に過ぎないが、平和な江戸時代に入ったことで、街道を用いる人口が増加したことに対応し、より人口が多くインフラの整った塩尻側の盆地部を通す道を選んだのであろうか。

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 交差点へと戻り、またすぐに旧中山道から逸れて南へ進み、やって来たのが平出の遺跡群である。ここには縄文時代から古墳時代を経て、平安時代までにかけての集落の遺構が存在しており、住居の跡および復元された住居などが広場に点在していた。復元された建造物は、内部を見学することも自由にでき、竪穴式住居の内部には生活用品なども復元されていて興味深かったのであるが、確か古墳時代の集落の地域にあった、上の画像の右下の高床倉庫だけは、梯子を上って屋内の床板を一歩踏んだ瞬間に、ガタンゴトンという尋常ではなさそうな音が鳴り響き、床を踏み抜いて死ぬ可能性が脳裏を過ぎったので、私は恐れおののいて慌てて逃げ出してしまい、中をしっかりと見る事は出来なかった。

 現地の案内板によれば、この地区に大規模な集落が長年に渡って存続してきたのは、一重に南西方にある平出の泉から湧き出る水資源のお陰であるようだ。遺跡公園の西側には古墳時代、中央には縄文時代、東側には平安時代の遺跡とその復元物が存在しており、中央北端にはガイダンス棟があった。しかし私はそれほど古代や平安の日本史に関心があるわけではなかったので、ガイダンス棟の中へは入らずに旅路を急いだ。

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 続いて私は遺跡公園の南西にある、この集落の発展の源、平出の泉へと向かった。道中、路傍の側溝には清く澄みきった水が、泉の方から流れている景色が続いた。これが平出の泉から湧き出し、太古より人々の暮らしを支えていた清水なのであろうか。

 そうしてやって来た平出の泉は、どういう現象の結果であるのか、水面が美しいエメラルド色に染まり、幻想的な雰囲気を漂わせていた。案内板によれば、これは伏流水が石灰岩地層の鍾乳洞の出口から湧き出しているものであるらしく、深い場所では6mも水深があるとのことであった。

 平出の泉を後にした私は、南側のアルプス展望しののめのみちへと出て、そこを西進した。道沿いには平出博物館や古墳などがあったが、やはり古代日本がそれほどの関心事ではなかったが故、今回は訪問しないこととして先を急いだ。

 中央西線を越え、平出歴史公園交差点から19号線を渡るあたりから、私は再び旧中山道の筋へと合流し、そのまま304号線を突き進んだ。

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 304号線沿いから西の方向には、奈良井川河岸段丘の地形をはっきりと望むことができ、開けた景色が広がっていて心地よい。

 そこから直進して、294号線に道が合流する直前にある、304号線と294号線とを繋いだ小さな脇道を通り、294号線を南下、すぐに304号線へと戻るのが、旧中山道の道筋だ。その脇道が294号線へと出る地点こそが、かつての善光寺道と中山道との分岐点であり、標識となる石柱が立っていたのであるが、現在はその少し南の、294号線と304号線との合流地点へと移設されている。現地の案内板によれば、昭和7年4月6日の、洗馬の大火の後に新道が開通した際に場所が移されたらしい。

 

洗馬宿

 善光寺道との追分から道なりに南下していくと、直ぐに洗馬(せば)宿の跡へと至る。洗馬という地名の由来は、かつて木曽義仲がこの地で馬を洗ったという故事からであるという(『中山道69次を歩く』, p.80)。

 駅前周辺の人家の生垣の中に埋もれるようにして、洗馬宿の本陣および脇本陣の跡を示す看板が設置されていた。

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 洗馬にはあまり古い街並みは残されていないようであったが、それでも何軒か宿場情緒の残る建物はあった。そして南側の宿外れには、洗馬宿の高札場の跡があり、石碑が立っていた。その周辺には「中山道名称統一300年」と書かれたポスターが掲示されていた。どうやら2019年で、「中山道」という名称が定まってから300年であるらしい。大方、「中仙道」などの表記揺れの存在に対応が為されたのであろうか。

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 さらに進んで中央西線の線路の高架下をくぐり、道を曲がるとすぐに、牧野の一里塚の跡地があった。ここにはもはや当時の遺構は残っておらず、石碑と説明板が立つのみである。
 そして私は更に旧中山道を進んだ。右手に臨む田園地帯と青い山の風景が美しい。304号線を南下し、国道19号線へと合流する。その後再びアルプス展望しののめのみちへと入ると、そこは次の宿場街、本山(もとやま)宿だ。道中、私はまだ傷の少ない状態で残されていた、美しい黒い蝶の死骸を拾った。

本山宿

 宿場の入り口には秋葉神社の祠及び、地蔵や庚申塔道祖神などの数々が立ち並んで旅人を出迎える。

 少し進んで右に曲がったところに、「本山そばの里」という蕎麦屋があったので、私はそこで昼食を摂ることとした。どうやらこの本山の地は、蕎麦切りの発祥の地であるらしく、そのこともあってか、周辺の人口の少なさとは対照的に、店の駐車場には多くの車が停まり、中は盛況であった。私の直感では、客には地元の住民の割合が多そうに見受けられた。

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 私が店に入って席に着くと、隣席のご老人から声を掛けられた。話によると、ご老人は車で中山道を走っている途中、コンビニに寄る前後で二回私のことを追い抜かしたらしい。確かにあの道を重装備の自転車で走っている人間は私以外に見受けられなかったので、私の姿はこのように、周辺を行き交う車の運転手の目に少なからず留まっているのであろうか。少し恥ずかしい気もするが、その結果としてこうして声を掛けていただき、一期一会の体験が出来るのは有難い。昔読んだ南米をロバで縦断した大学生の旅行記で、著者が行く道と同じ道を往復するトラックの運転手と何ヶ月かの間隔で複数回すれ違い、姿を覚えられて最終的に声をかけられて仲良くなったり、地元のメディアの取材を受けたりしていた話をふと思い出した。

 ご老人は私が東京から来たことを知ると、自分がかつて国士舘大学に通っており、その後確か早稲田のあたりであったか、に住んで働いていたというような事を聞かせて下さったほか、この辺りから伊那の方へと繋がる道(おそらく楢川岡谷線のこと)は、冬になると雪で閉ざされてしまうことなどを話して下さった。今思えばその道とは先ほどの平出の一里塚の説明板で言及されていた、牛首峠を越える道程である。冬季の通行の困難性も、1614年のルート変更の一因であろうか。

 蕎麦の味はすこぶる良かった事を記憶している。私は最後にレジの脇の商品棚にあった、塩と七味で味付けされた、100円の揚げそばの土産を買い、店を後にした。私が自転車を出す用意をしていると、若い夫婦に声をかけられ、どこから来たのか、ここからどこまで行くのかなど、自転車旅行について色々と尋ねられ、楽しく会話を交わした後、最後にペットボトルのスポーツドリンクの差し入れをいただいた。ただただ人々のご厚意、深い情けに感謝するばかりである。

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 さて、そばの里から宿場を更に南へ走ると、古い家並みが数多く現れるようになってきた。川口屋、池田屋、若松屋といった有形文化財に指定された古民家のほか、本陣の跡などが立ち並んでいる。更に宿の端に近いところにある脇本陣、上問屋の跡には、「本山宿」と刻んだ石碑も鎮座していた。更に宿はずれには高札場跡もあった。

 また、蕎麦屋に近いところにあった民家の生垣の陰には、「故陸軍砲兵小口藤雄君碑」と刻まれた石碑が立っていた。聞いたことのない軍人の名前であるが、この地元の出身であったのであろうか。あとで石碑の写真を見返したところ、石碑の前の生垣の中に説明板が埋もれて立っていたようであったが、私は恐らく探訪当時、それに気づかずに通り過ぎてしまった。いつか再訪する際には見逃さないようにしたいところだ。

 

 宿場を出ると道は19号線へと再合流し、また更に南下していく。旧中山道は途中で右に逸れて踏切を渡り、中央西線を渡る。しばらく進んで日出塩駅前に差し掛かったあたりにあるのが、日出塩の一里塚跡だ。現地の説明書きに依れば、ここの一里塚には榎が植えられていたようである。

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 そこから更に進んで再び19号線へと戻り、道なりに進んで行くと桜沢の流れを越える橋を渡り、「是(これ)より南木曽路」と書かれた道路標識および石碑が現れる。ここから私はいよいよ木曽路の道筋へと足を踏み入れていくこととなるのである。この辺りまで来ると、先ほどまでは河岸段丘を見せていた奈良井川の河畔の地形も、すっかり深いV字谷へと姿を変えていた。
 この石碑が道路の西側に立っている一方、東側の山の中には江戸初期の古中山道の跡(おそらく牛首峠の道筋)があり、桜沢砦という要害の跡が存在するらしいのであるが、入口をうまく見つけることができずに通過してしまった。再訪した際はここも要チェックである。

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 そこから少し進んだところには、桜並木と茶屋本陣があったようなのだが、そうとは知らずに見逃して通り過ぎてしまった。さらに進んで片平橋を渡り、白山神社の前を通り過ぎたあたりで、旧中山道は一瞬19号線から逸れて脇道へと入る。家々の並びに情緒が感じられる(上写真左)。

 その道を抜けると、崖の上に開発から僅かに生き残った若神子の一里塚の一部が残されている。私の案内板の判読が正しければ、この一里塚にも往時は榎が植わっていたようである。

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 一里塚のすぐ先で19号線から右の道へ逸れ、旧中山道へと入る。道の分岐点には「地酒 木曽の酒 中乗さん」と書かれた看板が立っていた。中乗さんといえば、民謡木曽節の歌詞に歌われている存在であるのだが、諸説あるその意味の説明に関してはこの酒を造っている酒蔵の公式ページが詳しい。このような地元の文化に由来する名称を酒の銘柄に名付けているのは非常に粋で興味深いものだ。成人したら是非ともこの酒を呑んでみたいと考えている。

 そして脇道の舗装路(Google Map上で旧中山道と記載されている)をしばらく進んでいくと、それが再び19号線に合流する手前のところで、「中部北陸自然歩道」と書かれた看板の立つ、林の中の未舗装路へと入ったので、私は車を降りて手で押しながら、19号線と中央本線の線路を見下ろす、崖際のその道を突き進んだ(上写真右)。これが恐らく中山道の旧道の道筋のはずである。

 

贄川宿

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 道が再び舗装路へと出ると、すぐに下り坂に差し掛かる。今まで木々に閉ざされていた視界がぱっと開け、坂の下には贄川の駅が見えた。下って行くと駅前には宿場の歴史の説明板があり、その先には「贄川宿」と書かれた看板があった(上写真左)。このタイプの看板は塩尻宿以降のだいたいの宿場に設置されているようであり、夜は明るく照明が光る。

 そこから少し上り坂に差し掛かり、線路の向こうには贄川の関所を復元した資料館が良く見える。駅前の説明板によれば、この関所は建武2年(1334年)に木曽路の北の守りのために築かれたのが始まりであるという。またパンフレットによれば、秀吉の時代に木曽の木材の出入りの監視のために、南の妻籠番所と同時に、この贄川の地にも番所が設置され、その後江戸時代に設置される木曽福島の関所の添番所となり、出女や物資を取り締まったとあるので、1334年に建てられたものは、戦乱期かどこかで少なくとも一度は失われているのだろう。

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 そして関所へとかかる跨線橋が面白かった。この橋の欄干には鉄琴が吊るされており、それぞれの下には民謡木曽節の歌詞の一文字が書かれている。すなわち向かって左から順に叩いていくと、木曽節のメロディーが奏でられるという仕様になっているのである。私はこの鉄琴を素手で殴ったり、携帯を軽くぶつけてみたりして音を試したのだが、あまり木曽節が鳴っているようには思えなかった。石などで強く打てばまた響きも変わってくるのであろうか。また、端には木曽節の歌詞の何番かが書かれたボードも設置されており、橋全体を通じて木曽節を周知するような構造になっているのが面白かった。

 そして私は関所の資料館へとやってきた。建物の向かって左端にある受付でチケット(大人は300円)を買うと、係員の方が中へ案内して下さる仕組みになっている。内部には当時の内装が復元されていたほか、江戸時代の関所運営に関わる文書などの資料が沢山展示されており、とても興味深かった。また、関所の裏手には下りの階段があり、そこから行き着ける地下スペースにも郷土・街道関連の展示があるほか、木曽一帯に関する大量、多種多様の観光パンフレット類が置かれ、自由に持ち帰れるようになっていた。

 私が訪れた際に関所の受付にいらっしゃった小母さんは、地下のスペースに冷房が効いていることを教えて下さって、休んでいくことを勧めて下さったり、私が自転車旅であることを聞いて熱中症予防の塩タブレットを幾つか下さったりと、非常に親切な方であった。旅人への情けに厚い街道筋ならではである。

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 関所の資料館の前から、来た道を戻らずに真っ直ぐ南下していくと、そこが旧街道の筋である。この道沿いには贄川の宿場町の名残と思しき古民家が立ち並ぶ。特に深澤家住宅という1800年代の建築の町家が、国重要文化財として状態良く保存されている。
 途中、旧道から少し寄り道して、歩道橋を渡って19号線へ戻り、僅かに南下すると、「贄川のトチ」という、県の天然記念物になっている、高さ17.6mにも及ぶ巨大なトチの木がある。私はそこに祀られている祠に参拝し、道中安全の祈りを込めてまた進んだ。

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 19号線は交通量が多く、再び横断して旧街道へ戻るのも億劫であったので、私はそこから新道の19号線を走り下りた。旧街道と再合流する桃岡の交差点から、旧街道側に回り込んですぐのところに、押込の一里塚の跡がある。塚があった場所は道路や耕地になっており、原型を留めていない。

 そこから先も19号線を進んで行ったのであるが、途中、旧街道の道筋が左の脇道へと逸れるところで、自転車の後輪が再びパンクしてしまった。復旧を試みたものの、穴が多すぎて対処出来ず、手持ちのパッチが尽きてしまったので、そこから次の木曽平沢駅まで、自転車を押して歩くこととした。

 道中、頭だけを草叢に突っ込み、尾を隠せていない蛇の姿を見つけたのが面白かった。まさしく頭隠して尻隠さずである。

 

木曽平沢

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 赤い夕日を身に浴びながら重い自転車を押し、襲い来る虚無感に包まれつつ木曽平沢の街までやってくると、そこには古い街並のよく保存された風景が広がっていた。人気の少ない閑静な街並は、夕雲に照り映えて幻想的な姿を見せていた。

 案内板によれば、この木曽平沢はすぐ近くの奈良井宿の枝郷で、漆器作りで有名な街であるようだ。この時は疲れていた上、乗れない自転車という大荷物もあったため、直ぐに駅へ向かってしまったので、あまりしっかりと街を見て回ることが出来なかったが、いつか万全の態勢で、もう少し早い時間に再訪したいものである。

 

 私は自転車を折りたたみ、木曽平沢駅から4駅先の原野駅まで中央本線に乗って進み、そこで天神温泉国民宿舎清雲荘に宿泊した。素泊まり4000円で温泉にも入れる良い宿である。

 しかし私は木曽谷を舐めていた。私の調べ方が悪かったのかもしれないが、原野駅周辺には夜にご飯を食べられるような場所が皆無だったのである。仕方なく私は持って来たじゃがりこにお湯を注ぎ、じゃがいものスープのようにしたり、煎餅をむさぼったりして何とか飢えを凌いだ。

 温泉が非常にいい湯であり、旅の疲れも解れた。ここに二泊することとし、翌日は自転車や重い荷物を宿に置いて行き、身軽になって電車で奈良井まで戻り、そこから京都方面へ向かって旧中山道を歩いていくこととした。

 

1日目(下諏訪〜塩尻)の記事:こちら

3日目の記事:執筆中

 

参考文献

岸本豊『改訂版 中山道69次を歩く 究極の歩き方120』(信濃毎日新聞社, 2011年11月28日)

ほか現地の案内板、パンフレット


『中国人民解放軍 「習近平軍事改革」の実像と限界』所感

 先日、『中国人民解放軍習近平軍事改革」の実像と限界』(茅原郁生, PHP新書, 2018年9月28日)を読了したので、その所感をここで述べておこうと思う。

 この本はその名の通り、中国の人民解放軍(中国陸軍を表す狭義の解放軍ではなく、海空ロケットその他の戦力も含めた、中国軍全体としての広義の解放軍)にフォーカスを当てたものであり、その建軍以来の歴史を踏まえての特徴や、それに対する現在まで続く数度に渡る改革についてが詳述されている。中でも習近平によって現在進行形で行われている改革については、多くのページを割いて詳細に分析、そして今後への予測が為されている。

 

 著者が防衛大の六期生の元自衛官で、引退後に防衛庁(現防衛省)の防衛研究所に入った人物であるということもあってか、全体的に解放軍を過剰に恐れたり、はたまた軽視したりすることなく、現実的にその軍事力を分析しているように感じられた。また解放軍の改革や、中国が今後展開としていくと思われる覇権国家を目指した政策についての日本の対応に関する著者の提案も、政治的イデオロギーに依ることなく、各国の実力や政策を分析した上で行われており、非常に元軍人らしい現実的な内容であるように思われた。

 この一冊を読み終えて、自分は今までかなり中国の国力や解放軍の実力を過大評価していて、「中国脅威論者」、もしくは米国から中国に鞍替えすることも視野に入れた親中派のようになりかけていたのではないかと思えた。やはり近隣国の内実をきちんと把握し、今後を分析することは、自国の今後の方針を定める上で非常に大切であるということを再認識させられた。

 

 また、この一冊を読んで幾つかの疑問点が解決したので、それについても記しておきたい。

 まず、解放軍が1979年のベトナムへの「懲罰のための侵攻」、すなわち中越戦争で大損害を受けた理由である。雑誌『歴史群像』の2014年12月号における中越戦争の特集の79ページ末では、ベトナム軍がインドシナ戦争およびベトナム戦争で実戦経験豊富であったことが理由の一つに挙げられていたのであるが、解放軍も抗日戦争や国共内戦朝鮮戦争などでそれなりに実戦経験を積んでいるのではないかと私は考えていた。

 しかしこの本を読んで分かったのであるが、解放軍は「党の軍隊」として毛沢東思想に従い、革命の軍隊の姿勢を貫く方針と、国軍として脱皮し、近代化する方針の間で揺れてきた歴史を持っており、それ故に十分に近代軍になりきれていなかったのだ。そのことは特に中越戦争が外征戦争であったことで裏目に出た。

 読み直したところ、『歴史群像』の中でも解放軍が文化大革命によって階級を廃止され、指揮系統に混乱をきたしていたことに言及が為されていた。なるほど、確かに文革によって毛沢東思想の理想的な面が押し出された後であれば、朝鮮戦争を経て近代戦争の洗礼を受けた上でも解放軍の近代化に遅れが生じているのは頷ける。

 

 もう一つの疑問は、安田峰俊氏の『八九六四』を読んでいて思った、中国人が抱く解放軍への謎の信頼感であった。天安門デモをしていた人たちの多くは、まさか解放軍が自分たちに発砲するとは思っていなかったのだ。普通、独裁政権の下の国家であれば、軍隊が国民の不満の声を抑圧するために使われることなど想像に難くないのではないかと考えてしまうが、中国ではそうではなかったことが疑問であった。

 しかしこの本を読んで分かったのだが、これも同じく解放軍が毛沢東思想の下で育成されていた他、抗日戦争および国共内戦ではその思想を実践して民心を把握し、民衆と一体化して戦っていたが故に、解放軍は「人民の子弟」と呼ばれるほどに親しまれていたのだ。これならば天安門に集った人々が解放軍による鎮圧を想定していなかったのも納得できる。

 

 このように歴史の理解にも一役買ったほか、この本は現代情勢の理解の助けともなった。習近平の行った改革について、筆者は複数の不安点を挙げていたが、これからそれらがどのようになっていくかが気がかりである。

 例えば筆者は今後中国が世界覇権を獲得し得るかについて、米国と違って人権や民主主義のような普遍的に受け入れられやすいイデオロギーが無いことを難点として掲げていたが、これは実際にその通りである。

 安田峰俊氏の『もっとさいはての中国』の33ページでは、西側諸国が専制国家への支援を渋るのに対して、中国は金にさえなればそのような国とでも積極的に仲良くすることが説明されていた。それはすなわち、裏を返せばアメリカの思想に共感しない国を味方に引き入れているだけであり、自国の確固たる思想体系の下に動いているとは言い難いのではないだろうか。ただし、私は習近平思想などをきちんと学んでいないので、この記述は憶測に過ぎないが。

 この一冊のおかげで、私は今後の米中・日中情勢のニュースなどをより深く理解できるようになった気がする。

 

南信州限界旅行記 1日目 塩尻峠を越えて

 2019年8月9日、特急あずさに揺られて幾時間が経ったであろうか。私は二ヶ月前の自転車旅行で辿った思い出懐かしい甲州の地を過ぎて、いつしかまだ見ぬ信州の地へと足を踏み入れていた。これが私の人生で初めての長野県入りである。

 今回辿るのは諏訪から木曽へ至る中山道の道筋である。旅の準備として『読み直す日本史 木曽義仲』(下出積與, 吉川弘文館, 2016年11月1日)を読み、旅行先の歴史についての理解は深めていた。三波春夫氏の歌謡浪曲木曽義仲一代記』に心を動かされたり、母校の近くにあった息子の義高の墓を訪れたりしていたので、個人的に木曽義仲公に思い入れが深かったほか、侠客仲乗り新三を歌った橋幸夫氏の『木曽ぶし三度笠』が大好きであったのも、この旅路を選んだ理由の一つである。他にも前々から武田信玄に関する勉強もある程度進めていたため、その信州進出の舞台も同時に見ていくつもりであった。

 とにかく、行き当たりばったりで、信州南部において、体力の限界が来るまで(結果的に三泊四日間)過ごした旅であったので、これを記事タイトルの通り「限界旅行」と名付けることにした。

 

2日目(塩尻木曽平沢)の記事:こちら

 

 上諏訪駅に降り立ち、夏の澄んだ青空の眩さを目にした私の胸には、待ちに待った旅がいよいよ始まりを告げたことの実感が込み上がり、無性に爽やかな気分に包まれた。そこから中央線の普通列車に乗り換えて一駅、やって来たのが下諏訪、すなわち甲州街道中山道に合流する終着点である。

 後にこの旅の話を祖父にした際に聞いたのだが、祖父が20代と若かりし頃、仕事で初めて工事の監督を務めたのが、この上諏訪から下諏訪に至るまでの道路であったという。今は住宅地のひしめくこの諏訪湖岸も、かつては宿場町周辺を除いてはほぼ原野や田畑であり、故に諏訪湖流入する生活排水の量も少なかったため、湖面はアオコも無く、今よりももっと澄み渡っていたそうだ。諏訪の旅路の風景を思い返しながら、祖父の話す情景を私は脳裏に映し出し、当時の様子を一目見てみたいものだ、と、今や決して叶うことのない憧れを抱いているのである。

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下諏訪宿

 下諏訪駅の出口で折りたたみ自転車を展げた私は、駅の北側を東西に走る大社通りを東進し、名高き諏訪大社の下社秋宮へと向かった。初っ端から急な坂が私に試練を与えて来たが、これをなんとか乗り越え、秋宮の前へとやって来た。どうやらこの道も既に中山道の一部であるようなので、なかなかに気分も上がってくる。

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 下社秋宮は森の中に鎮座し、神秘的な雰囲気を携える。力量が足りず稚拙な表現しかできないのが癪であるが、日本中にある諏訪神社の総本山というほかない。私は入り口の南側にあった駐車場の一角に自転車を止め、再び正面の鳥居のところへと戻って一礼し、境内へと足を踏み入れた。

 境内は本殿(上写真左下)の前に見事な神楽殿(右下)が構え、どちらも立派な造りを見せている。その手前には神木やお湯の出る手水舎などもあった。私は参拝を終えた後、御朱印をいただいてから駐車場へ戻ったのであるが、ふと行きに駐車場へ入る途中で、奥に霞ヶ城なる城の跡があることを示す看板が立っているのを見つけたことを思い出した。

 そこで案内に従い、駐車場からさらに南へ、道路にかかった橋を渡って進んで行くと、諏訪湖を見下ろす高台の、開けた砂利敷の空き地に出た。

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 橋を渡ってすぐの所にある案内板によれば、ここはかつて霞ヶ城という城のあった場所であるという。霞ヶ城は又の名を手塚城と言った。

 手塚とは木曽義仲の家臣で、この城の主であった手塚別当金刺光盛のことであるようだ。光盛は倶利伽羅峠の大捷の後、敗退した平家軍が南加賀に敷いた防衛線に、追撃する義仲軍がぶつかった篠原の合戦において、平家軍が総崩れする中でただ一騎踏みとどまって抗戦した敵将、斎藤別当実盛を討ち取った(『読み直す日本史 木曽義仲』, pp.89-95)。

 この実盛は、幼き日、父である源義賢がその甥の悪源太に討たれ、孤児となった義仲を引き取り、木曽の豪族中原兼遠に預けた恩人であった。義仲軍がそんな恩人を手にかけざるを得なかったことは、まさしく乱世の非情な運命である(『読み直す日本史 木曽義仲』, pp.9, 14-16)。

 そしてこの広場の中央付近にぽつんと茂った木立の中に、一つひっそりと佇む像があった。馬上に弓引くこの勇壮な姿の銅像の人物は、城主光盛の兄、金刺盛澄である。盛澄は諏訪明神下社の大祝(おおほうり)という役職の人であり、弓と馬の名手であった。義仲の上洛の際は弟の光盛と同様にその軍勢に加わったが、盛澄は諏訪明神御射山社の例大祭に参加するために途中で帰国している。

 義仲の死後、盛澄が源頼朝によって鎌倉へ召された際、京の城南寺の流鏑馬に参加していたことが理由で遅参してしまったのであるが、盛澄は頼朝にこのことを責められ、処刑されることとなった。しかし処刑を命じられた梶原景時は、弓と馬に関しての稀代の才能の持ち主である盛澄を殺すことを惜しみ、最期に頼朝の眼前で盛澄に流鏑馬を行わせることを計らった。その時に盛澄は頼朝が用意させた鎌倉一の暴れ馬を乗りこなし、小さな土器の的を一つも外さずに射抜いたことで、頼朝に神の御技と感動され、遅参の罪を許されて諏訪へ帰ることが出来、その後御家人になったのであった(出典:銅像の碑文)。

 真夏の木漏れ日を見に浴びて、大社を見据え今も佇む盛澄の姿を見納めながら、私は再び車に跨って大社を後にした。中山道へと走りだす前に、少し下諏訪宿の観光をしていこうと思い、大社の目の前にある往時の宿場町の跡へと向かった。

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 まず、諏訪大社下社秋宮の目の前の、国道142号線が湾曲している部分へと出てみた。すると、「歴史のこみち」なる看板があり、宿場風情を感じさせる小径が、奥の建物の方へと続いていたので、ひとまず車を下り、そこへ入ってみることにした。

 門をくぐると、そこには江戸時代の町家をそのまま残したかのような風情の建物があり、道はその中庭に繋がっていた。この建物は宿場街道資料館という、その名の通りの資料館であり、入館料は無料であった。私は小さくも美しいこの庭園を抜け、資料館の中へと足を踏み入れた。

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 資料館は二階建てで、内装もしっかりと当時のものが再現されていた。受付の人に声をかけたところ、靴を脱いで上がって自由に中を回って良いとのことであったので、お邪魔させていただいた。

 内部の展示は当時使用されていた宿場の食器、衣類、立て札、灯り、家具などといった多彩な日用品のほか、当時の街道を描いた浮世絵、および文書資料など、様々な興味深いものが並んでいた。

 特に私が興味を掻き立てられたのは、当時の文書資料から再現した、宿場の食事の献立の写真や、資料から読み解いた江戸時代のホテルビジネス(例えば講への加盟やガイドブックへの掲載など)の解説、そして戊辰戦争時に付近の和田嶺で発生した戦闘の際に使用された小銃弾の展示などであった。是非現地を訪れて見ていただきたいものである。

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 資料館を後にして、先ほど歩いてきた歴史のこみちを戻り、再び自転車に跨った私は、142号線を僅かに北上し、甲州街道中山道の合流する地点までやってきた。

 合流地点一帯の区画は駐車場となっており、道路に面したところに下諏訪宿周辺の案内地図と並んで、そこが街道分岐点であることを示す石碑が立っていた(下の写真左上)。

 駐車場を奥へ進むと、江戸時代にあった「綿の湯」という温泉の跡地を示す石碑があり(右上)、横の壁面には綿の湯を描いたと思われる浮世絵が大きく飾られていた。石碑の横のパイプからは、今も熱い温泉水がこんこんと湧き出していた。この綿の湯については、先ほどの宿場街道資料館の中に説明板と、建物の復元模型が展示されていた(左下)。

 そこから142号線を北へ進むと、そこは既に中山道を江戸方面へ向かう道である。先ほどの駐車場と同じブロックの端に、かつての本陣の跡の立派な門構えがあった(右下)。案内板によれば、文久元年(1861年)の和宮の御降嫁の際の宿泊所、そして明治13年6月24日には明治天皇行幸の際の休憩所になった、由緒ある宿であったようだ。現在は史跡として開放されているようであったのだが、先を急いでいたので、見学は次にゆっくり諏訪を訪れた際に回すこととして、ここで踵を返し、今度は中山道を京方面へと向かって進み始めた。

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 中山道甲州街道の合流地点から伸びる、142号線ではない道へと入ると、そこが旧中山道を京方面へと向かう道である。どうやらここがかつての下諏訪宿の中心街であるようで、沿道には老舗と思しき、古風な外観の旅館が立ち並んでいた(下写真左)。一角には先ほど裏から訪れた宿場街道資料館もあった。どうやらこちらが正面玄関のようである。

 道の出口、再び142号線に合流するところには、車道をまたいでゲートが設置されており、提灯が吊るされているのが風情を醸し出していた(右)。向かって左手側の角には高札場の跡があったようなのであるが、うっかり写真を撮り忘れてしまった。

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 そのまま先ほど諏訪神社に向かって来た道を戻り、142号線を直進すると、間も無く道は20号線へと変わる。その先のY字路を左へ逸れ、旧中山道に入ると、直ぐのところに魁塚という場所がある。

 これは明治維新において官軍を指揮して戦い、勝利した暁には年貢を半減させると約束しながら東へ進軍し、民心の把握を目指した相楽総三という人物と、その7人の同志の墓である。彼は年貢を減らしたくない新政府によって裏切られ、1868年3月3日、偽官軍の汚名を着せられてこの地で処刑された、悲劇の人物なのであった(出典:現地の案内板, 青字は脳内)。

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 私は塚の前に跪いて手を合わせ、相楽総三の無念に暫し想いを馳せた後、再び車を西へと走らせた。途中、砥川を渡るところで旧中山道は尽きるため、一度20号線に戻ってそこから橋を渡り、すぐに再び左へ逸れて旧道へと戻る。

 途中、長地中町交差点で、道は下諏訪辰野線と交差する。ここがかつては伊那方面へ向かう街道との分岐点であったようで、「右 中仙道 左 いなみち」と刻まれた石碑(下の写真左)が一角に立っていた。「勘太郎月夜歌」のメロディーに思いを馳せ、いつかは天竜川に沿って伊那の方へも旅してみたいものだと思いながら、私は交差点を通り過ぎた。

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 そこからさらに進むと、旧道は出早口交差点で20号線を跨ぎ、北西方向へ逸れ、初日の最難関である塩尻峠へと向かう。この交差点に東堀の一里塚の跡があったのだが、道の確認に夢中でまたも訪れ忘れてしまっていたのが心残りである。

 この日は先ほどから雨がぱらついており、不安定な天気であったのだが、少し雨脚が止まったと思ったら、不意に激しい夕立に襲われたので、横河川に架かる橋の袂の木陰に車を止め、しばしの雨宿りをした。荷物や車、衣服を濡らされた上、雨宿りを始めて直ぐに雨が止んだので、なかなかに腹立たしい夕立であったが、雨の上がった後の東の空を見返ると、本当に鮮やかで美しい虹が架かっていたので、全てを許せるような気分になり、気合を入れ直して更に先へと進んだ。虹は写真では見ても分かりづらいし、美しさも感動もないのだが、上の二枚のうちの右側に写っている。

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 峠の麓までやってくると、そこには旧今井村の御小休本陣があった(上写真左)。往来の激しい街道の、難所である峠の麓であるから、土地柄上当然休む場所を求める人が多く集まったのだと思われる。案内板によれば、ここにも先ほどの下諏訪の本陣と同様、文久元年11月5日に御降嫁する和宮が、明治13年6月24日には行幸中の明治天皇が宿泊されたそうである。

 これより先の道はいよいよ山へと入っていき、傾斜もきつくなってくる。道端に数多くの「旧中山道」の大小の石碑や標識を見ながら、高速道路の岡谷IC一帯を見下ろす高台を、段々と人家が少なくなる中で進んでいく。これからこの高速道路がトンネルに入ってしまう山の上を越えていくのである。

 ここまで来て、これから峠であるというのに、手持ちの水の残りが心もとなくなって来た。500ml前後のペットボトルを使い、ところどころで水道水を補給しながら来たのであるが、確か最後に汲んだのが下諏訪のどこかであっただろうか。どこかに補給できる場所がないかとあたりを見回しながら進むも、見つからずに峠に差し掛かり、このまま進むべきかと難渋していると、ここに救いの神、もとい観音が舞い降りた。路肩の「石船観音」の横の斜面から、清い湧き水がこんこんと流れ出ていたのである(下写真左)。

 かつての旅人もこのように期せずして観音さまの恩恵に預かったのであろうか、などと想像を巡らせながら、私は生まれてから飲んだ中で最も甘露なこの湧き水を何杯も何杯も飲み干し、ボトルいっぱいに汲み取った。もしかしたら水が湧き出ているからこそ、ここに街道を通し、観音を立てたのかも分からない。ともかく、私は観音さまにそっと片手拝みで一礼し、再び道を急いだのであった。

 山道の勾配は更に急になり、木が茂って薄暗くなる。車通りは殆ど無く、結局最後まで二、三台しかすれ違うことは無かったし、歩行者に至っては終始一人も出会うことが無かった。道中、路肩の左手には、「塩尻峠の大岩」なるものが転がっていた(下写真右)。案内板によれば、どうやらかつての江戸時代には、この岩に身を隠して盗賊が旅人を待ち伏せているようなことがあったらしい。その事情を事前にネットで知り得ていた私は、一応警戒しながら近寄ったのではあるが、当然周りには人っ子一人居なかった。ここが表街道であった江戸時代ならばいざ知らず、裏街道に落ちぶれ、殆ど人通りのなくなった現代では、生い茂った木に囲まれ、草むしたこんな岩の陰でいくら待ったところで、目ぼしい通行人は現れず、盗賊も退屈で眠りこけてしまうのが関の山であろう。

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 そこから先の左右の風景は樹林へと変わって段々と閉ざされていき、勾配は更に急になって自転車は押して歩くようにまでなった。息を切らしながら重い車を押して進んでいくと、暫くして辺りの風景は開けた。漸く峠の頂上へと出たのである。舗装路から傍の森の中の小道に逸れると、周辺には明治天皇の立たれた場所を示すものを始めとする石碑や、富士浅間神社の祠などが立ち並んでいた。

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 この峠の一帯はかつて、松本盆地一帯を領有する信濃守護であった小笠原長時の軍勢を武田信玄が破った、塩尻峠の合戦の舞台である。

 信玄が諏訪郡を領有して以降、この塩尻峠を境にして対立し、小競り合いを繰り返していた小笠原長時は、天文17年(1548年)2月14日に上田原の合戦で信玄が村上義清に大敗を喫し、その陣営が動揺した隙に乗じて、積極的に離反攻撃や諏訪郡に対する攻撃を仕掛けるようになった。

 そんな最中の7月10日、西方衆という諏訪湖西岸の土豪らや、諏訪氏の一族である花岡氏、矢島氏などと内通しながら、小笠原長時の軍勢は再び諏訪へと動き出した。これらの離反の報を受けた信玄はその日のうちに軍を動かし始めるも、ゆっくりと動いたが故に18日になって漸く諏訪郡へと達した。しかしその後急激に進軍速度を速め、19日の早朝6時、塩尻峠に構えられた長時5000の軍勢に奇襲攻撃を仕掛けた。

 それまでの信玄の遅い行動が故に油断しきっていた長時軍は、まさかこれほど早く敵が来るとは思わず、寝起きで意表を突かれて武具をつける暇もなく撃破された。峠の戦闘だけで長時軍は千余の将兵を討ち取られて敗走、その後諏訪郡内の残敵も掃討され、諏訪郡は再び信玄により平定されたのであった。

 信玄はこの戦いで上田原の敗戦の雪辱を果たし、この後次々と失地回復および領土拡大を実現することとなる(『武田信玄』, pp.38-41)。

 そのような歴史に想いを馳せながら小道を更に進んでいくと、不意にコンクリート製の巨大な展望台が現れた。これまで、ここは峠であるというのに、森に閉ざされているが故にあまり景色が良く無いことに内心不満を抱いていた私は、期待を抑えきれずにその展望台の階段を駆け上った。

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 過ぎ来し方を振り返って眺めれば、雄大諏訪湖とそれを囲む盆地の市街が一望される。湖面の片隅に照り返った夕日も美しい。

 そしてこれから進む先、西の方を眺めれば、遥かな山際、乗鞍岳の方向に赤い夕日が沈んで行く。左手遠方には御嶽山と思しき山影もあった。

 私は思いがけずに出会ったこの絶景に強く感動を覚えながら、しかし当てはなくとも急ぎ旅であるので、後ろ髪を引かれつつも展望台の階段を下り、再び車に跨った。展望台の上で、左右の景色の美しさに気を取られ過ぎて、眼下に広がる塩尻峠の合戦の古戦場の地形を注視できなかったことは少し心残りである。

 しかしここから先の中山道の下り坂は急勾配であった上に、路面の舗装がガタガタで酷い悪路であったので、自転車でスムーズに走り下ることはとても怖くて出来なかった。そのため私は嫌々ながら自転車を下り、慎重に押して進んだのであった。

 少し坂を下ったところに、かつての大名や旅人たちの休憩所であった、茶屋本陣の跡があった。現在ここに立っている家屋は、おおよそ築200年のものであるという(『中山道69次を歩く』, p.78)。家屋には未だ生活感があり、誰かが現在進行形で住んでいるようであった。その向かいには、明治天皇の御膳に用いた水を汲んだ井戸と、それを示す石碑があった。

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 そこから更に進んだところには、東山一里塚の跡があった。この一里塚は道の南側の盛り土が現存しており、その天辺には植樹が為されていた。一里塚というものは江戸時代当時は、盛り土の上に立ち木があるものであったので、その再現をしようとしているのだろうか。しかし周辺の植生を見ると針葉樹が多く、極相林であるように見受けられるので、素人目ではあるが、この木がしっかりと日光を浴びて育つことが出来るかが気がかりだ。とはいえ、苗を見る限りではこの木も極相種と同じか、似たような陰樹であるように見えたので、周囲に溶け込んで見た目が地味になりそうだが、無事に育ちはするであろうか。

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 すっかり日は落ちて来たが、更に車を進めて長い坂を下り、国道20号線にタッチした後、またすぐに右へ逸れて旧中山道へと入る。鬱蒼とした林の中を走る道を抜け、再び出会った20号線を渡り、更に直進して長野自動車道の上に架かった橋を渡って越える。古い民家が続く坂道を下っていき、途中を左に曲がると、畑の片隅に首塚・胴塚がある。

 この首塚は先述の塩尻峠の合戦において、首実検の後に野ざらしで残されていた、小笠原方の戦死者の遺体を見て、哀れに思ったこの柿沢の地の村人が埋葬して建立したものであったが、戦国末期以降は草叢の中に埋もれ、長らく忘れ去られていた。しかし昭和10年になって、同じく柿沢の熊谷善蔵という人物がその荒れ模様を哀れに思い、こうして再建したそうである(出典:現地の石碑)。

 この首塚を訪れる際、私は現地の案内表示が無かったためか、はたまたあったが暗闇で見落としてしまったためか、旧中山道をどこで曲がれば首塚に辿り着けるのかが分からず、坂道を行ったり来たりしてしまったように記憶している。そうならないように、Google Mapでは「首塚」と検索すれば場所が表示されるので、訪れられる方はそれを頼りに向かわれると良いだろう。

 

塩尻宿

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  やがて旧中山道は153号線に合流し、かつての塩尻宿の宿場町を横断して西へと走るのであるが、この塩尻宿の遺構に関しては、暗闇のため、ライトアップされた看板以外はしっかりと見て回ることが出来なかったので、 また次に訪れた時に回すこととした。

 その後中山道の道筋を逸れ、JR塩尻駅の方面へと進み、宿へと向かった。道中は夏祭りか何かの時期であったようで、商店街の沿道にちょうちんが掲げられていて幻想的であった。

 宿泊したのは駅の西側にある「すがの旅館」であった。宿へ向かう途中、線路をくぐる辺りで自転車の後輪がパンクしてしまい、チェックインの時間に大きく遅れてしまったのであるが、親切に対応してくださって非常にありがたかった。夕食は宿で採ったのだが、うなぎにご飯に更にうどんまで付いて、量がかなり多く、少食の私は食べきれずに残してしまったのが申し訳なかった。味の方は良好であった。

 この夕飯の際に、お湯の入ったポットと急須が出された。急須の方からお茶をコップに汲もうとしても中身が出なかったので、仕方なくお湯をそのまま飲んでいたのであるが、後々になってよく考えたら、急須の中に茶葉が入っており、そこにお湯を入れて茶を出すというものであった。この話を書くと人々に世間知らずとして謗られるであろうが、面白い思い出なのでここに書き残しておく。

 その晩、パンクした後輪の修理を行い、また塩尻峠の下り坂と、その後の旧中山道の林間の道で二度ほど転倒した際の体の傷に絆創膏を貼ってから就寝し、翌日の出発に備えた。

 

2日目(塩尻木曽平沢)の記事:こちら

3日目の記事:執筆中


参考文献

岸本豊『改訂版 中山道69次を歩く 究極の歩き方120』(信濃毎日新聞社, 2011年11月28日)

下出積與『読み直す日本史 木曽義仲』(吉川弘文館, 2016年11月1日)

笹本正治武田信玄 芳名天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房, 2005年11月10日)

ほか現地の案内板、観光パンフレット

『イスパノアメリカの征服』所感

 先日、『イスパノアメリカの征服』(マリアンヌ=ロト著, 染田秀藤訳, 1992年6月20日, 白水社)を読了したので、その所感をここに書きまとめておこうと思う。

 この本は大航海時代における「新大陸」の発見と、その征服についての歴史を、主にスペイン人のコンキスタドーレス(征服者)の動きと、それに対抗した原住民を中心に据えて論じたものである。そのためポルトガルや英仏の活動に関しては殆ど触れられていない。

 

 この本全体を通じて私は、今までただ残虐なものであると曖昧に認識していた、スペイン人の入植の意外な側面に驚かされた。それはつまり、残虐であったのは富や地位を求めて原住民を侵略したコンキスタドーレスや、その後エンコミエンダを手にし、原住民を奴隷として酷使し、農場や鉱山での労働に充てたエンコミエンデロという農場主の一部のみであり、修道会士や本国の人々をはじめとする多くのスペイン人は、そのような原住民に対する暴虐に心を痛め、批判していたということである。そしてそのような声に心を動かされたエンコミエンデロの一部は、原住民への補償へと動いたことすらあったのだ。

 このような現象の背景には、主に二つの要因があったのではないかと私は考えた。まず一つは、スペインが強力なカトリック国家であったことだ。それ故にスペインが新大陸を発見したのは、神が何かスペインに対して新大陸における使命を与えたからであり、それこそが原住民に対するキリスト教の布教だと考えられたのである。そのことは原住民を布教の対象として位置づけ、今は無知蒙昧であるが、やがてキリスト教を信仰するようになり、スペイン国王の権威になびくこととなる、臣民として捉えられたのだ。それ故に修道士たちは積極的に平和裏の布教活動を行い、正しいキリスト教道徳を教え込むために、堕落した入植スペイン人たちと原住民との接触を防いだりもしていたという。

 もう一つは、メキシコ高原のアステカ、およびアンデスのインカを中心とする地域が、トウモロコシという栄養価の高い作物に支えられ、大人口と高度な文明を築いていたことだと考えられる。とこれらの文明の産物、例えばインカの「王の道」やキープという縄の結び目を用いた情報伝達技術などは、スペイン人たちをも大いに感心させ、異教徒ではあるものの、原住民に一目置くことになる主要な理由となったようだ。特にインカ帝国の征服においては、コンキスタドーレスがかなり恩知らずな裏切り、騙し討ちによって皇帝アタワルパを攻撃し、最終的には処刑したため、相当な批判が国内からも渦巻いたようである。

 私がこの二つの要因を挙げることで比較したいのは、北米のインディアンに対する、イギリス人を始めとする入植者の扱いである。インディアンが土地を奪われ、追放され、虐殺され続けた上、あまり混血が発生しなかった背景には、彼らがアンデス、メキシコと比較してそれほど高度な文明を築いていなかったが故に、軽んじられてしまったということがあるのではないだろうか。また、そのことも相まってか、スペイン王国と違って、北米に入植したイギリス人たちが原住民を布教の対象とそれほど強く認識していなかったことも、迫害と虐殺を推進する理由になってしまったのかもしれない。とはいえ、あくまでこれらは仮説でしかないため、以降北米における入植に関する本にも触れて、いつか検証してみたいと考えている。

 なお、同じ北米への入植者であっても、フランスは原住民と協力する傾向が強かったようであるが、これはフランスが通商目的で新大陸に進出していたからだと思われる。一方のイギリスは幅広い入植と定住化を試みたので、先住者を邪魔者と見る傾向が強かったのであろう。スペイン人も定住して農園の経営、鉱山の開発を試みたので、ここにイギリス人との共通点があるわけなのだが、その結末の違いの成因について、私は上記のような仮説を立てたわけである。

 

 また、一攫千金を狙うスペイン人征服者が、自分たちだけでは農園を維持できず、まずはエスパニョーラ島で原住民を無償労働力として使い始めたことが、エンコミエンダ制の始まりであるようだが(p25記載)、そのようなスペイン人の態度と根本的に異なって、自らの手で農地を耕したことこそが、日系移民の成功の理由なのではないかと思い至った。日系移民の歴史については手元に本があるので、後日再読して考察したい。つまりこれも単なる仮説である。

 とはいえ、スペイン人にも、本国から農民を連れてきて農園を経営する発想はあったようなのだが、封建制であった当時のシステムがその実行を邪魔した。ある封土の農奴を新大陸へ送り出すとなれば、国王は領主にその分の損失の十分な補填を行わなければ、強い反発を受けてしまう。例えば20世紀の国民国家日本で行われた、大規模な国策満州移民のような計画が実行できなかったのには、そのような社会的背景があったというのは非常に興味深い。

 

 ともあれ、修道士ラス・カサスをはじめとする、インディオたちの擁護者の働きの成果もあって、南米では北米に比べて多くの原住民が生き残り、またその文化や歴史、芸術、言語、習俗なども比較的多くが現代まで存続し得たほか、原住民との混血が大規模に発生したことは事実である。

 本書のp148周辺ではビトリア、p149周辺では、ラス・カサスという、二人の代表的なインディオの擁護者の言説が紹介されているのであるが、その内容がまた興味深かった。

 前者のビトリアは、布教を大義名分として侵略戦争を仕掛けることを否定してはいるが、男色、人身供儀、人肉食などといった「野蛮な」文化を正し、原住民を「文明人」に叩き直すための征服は肯定している。 

 その一方で、後者のラス・カサスは如何なる征服戦争をも否定しており、また、当時半ばスペインの傀儡や、亡命政権のようになって、未だ存続していたインカの末裔に、ペルーの統治権を返還することすらをも訴えた。余談だが、私は受験世界史でアタワルパこそが最後のインカ皇帝であると学んでいたので、その後も傀儡や亡命政権が存続し、権威を持ち続けていたこと自体が初耳であり、驚きであった。

 このような二者の理論の対比の中で、当時としてはラス・カサスの意見が非常に急進的であったとして説明されているのは、文化相対主義などが未だに全く台頭していないであろう当時を鑑みればまあ当然なのであるが、やはり我々現代人、と言ってしまうと主語が大きすぎるので、西側の自由主義・民主主義社会の中で人権思想の恩恵を享受してきた我々の価値観からすると、当時の人々の、そして当時のキリスト教の倫理観を疑ってしまうものである。

 そんな中で、ラス・カサスが、自分の理論を証明するために、グアテマラの一地方において軍事力を用いずに根強い宣教活動を行い、最終的に改宗した原住民にスペイン国王の主権を認めさせたと言う事実は、ラス・カサスを尊敬に値させるエピソードであった。なお、ラス・カサスは黒人奴隷制を擁護したという話もあるが、晩年彼はその考えを改め、黒人についてもインディオと同様に権利を擁護している。

 

 インディオの文明に関する言及の中で、私が最も興味を惹かれたのは、インカ帝国統治機構に関する記述であった。インカ帝国が存在していたアンデス地域は、山脈が太平洋岸に迫っているが故に標高差が激しく、その標高差のために異なる気候に伴って、地域ごとに異なる作物が栽培されているのであるが、インカ帝国は税制によってそれらの作物をそれぞれ徴収した後に、異なる地域に再配分することで、それぞれの地域で手に入らない物の流通を促進していたのである。地元の風土に適応したこの再配分システムには大いに感心させられたが、だからこそ、そのような地理風土をよく把握せずに、ただ金になる作物を、それを育てられない地域に要求し、このシステムを破壊したスペイン人領主には腹が立ってしまう。

 そのほかにも、征服からだいぶ時が流れた後に、異教の復活に伴って発生したメキシコの千年王国運動や、インカの子孫のマンコがクスコを包囲した大反乱、およびチリのアラウコ族との戦いなどの記述には、かなり興味を唆られたので、これらを軍事・戦史的な側面から解説した書物があれば読んでみたいと思った。

 

 また、p134, 135にある、旧約聖書の創世記の観点から、新大陸に存在する人間をどう捉えるかという議論の紹介も面白かった。旧約聖書では現代に存在する全ての動植物は、大洪水をノアの箱舟によって免れた存在のみであるとされているのであるが、新大陸において旧大陸には存在しない、異形の生物たちを数多く目にしたことで、スペイン人は大いに動揺したようであった。私はこれが気になって旧約聖書の該当箇所(創世記6~9章)の記述を見てみたのであるが、方舟に乗り込んだ存在について、特に具体的な生物の名前は列挙されておらず、ただ「潔き獣と潔からざる獣と鳥および地に匍ふ諸の物」と記されていたので、別に異形の生物が存在しても、今まで方舟に乗っていたことが忘れ去られて遠くで暮らしていただけと考えれば違和感は無いように感じた。ここについてはもう少し背景を探ってみたいところである。

 他にも、インディオたちを、人類の共通の祖先であるノアの息子と見なさざるを得なかったことや、彼らをイスラエルの「失われた10支族」の末裔であるとした仮説、そしてインディオたちの伝承に残っていた洪水の話を、旧約聖書のそれと同一視したこと、またケツアルコアトルの伝説をキリスト復活後に全世界に分散した使徒の一人である、聖トマスと同一視したことなどは興味深かった。そしてこのような同一視が、人種間の融和を進めたと言うのもなおさら興味深い。

 

 その他に興味深かった記述は、p19などで触れられている、例えばエル・ドラドのような、南米に残る財宝伝説の多くは、欲深いスペイン人征服者を遠方へ追いやるために、原住民がでっち上げた出鱈目だったというものなどである。なるほど、征服者の特質の裏をかいた原住民の知恵には感服の限りである。

 また、王室官吏に従わずに好き勝手する征服者の発言として、p15で紹介されていた、「神は天に、国王は遥か彼方におはし、私がここを支配する」という発言には、恥ずかしながら無性に男心というか、ロマンというかをくすぐられた。私も自らの軍勢を率いて新天地に立ち、「国王」の部分を「天皇」に替えてこのような台詞を嘯いてみたいものであるが、少なくとも現代では、地球上においては今後不可能であろうと思うと、生まれた時代を間違えたかのような感覚を覚える。

 だが、忘れてはならないのは、トウモロコシの恩恵に支えられ、密度の差はあるものの、当時アメリカ全体に7000万いた(諸説あり)というインディオの人口を激減させ、メキシコ地域では2500万(諸説あり)から本著発行時点での公式記録である350万にまで減らしてしまったのは、征服や強制労働よりも、何よりも旧大陸から持ち込まれた、原住民にとって免疫のない疫病であったということだ。本筋からは大きく逸れるが、現代医学の力には感謝してもしきれないことを再確認させられた一冊であった。

『中国慰霊』所感

 先日、神保町の古書市で手に入れた『中国慰霊』(読売新聞大阪社会部, 1985年8月10日, 角川文庫)を読了したので、ここに所感を述べておこうと思う。

 この書籍は以前の記事で所感を述べた『進軍中国大陸三千キロ』と同じく、大陸打通作戦を扱った戦争体験記である。しかし、両者を読んで受けた印象には大きな違いがあった。その違いを中心軸に据えて、これから感想を論じていこうと思う。

 

 まず、前回読んだ『進軍中国大陸三千キロ』は、以前の記事で述べた通り、歴戦の精鋭師団である第二十七師団(極)を扱ったものであった。この師団は装備も比較的充実しており、大隊砲、聯隊砲といった支援火力も頼もしいものであった。

 それに対して、今作で中心的に扱われたのは、ほぼ歩兵火力のみで構成された第六十八師団(檜)であったのだ。故に戦闘は劣勢な装備によって行われる悲惨なものばかりとなっていた。しかも兵たちは補充兵ばかりで、漂う悲壮感も一層のものであった。

 その上、特に湘桂作戦においては両者が担う任務も異なっていた。極が第二線に配置され、味方の進撃後の地域に残存している敵兵力の掃討・追撃や、敵の逆襲への対抗などを担っており、野戦が多めであったのに対して、檜は要衝の都市である衡陽の攻略の最前線に立たされ、敵の堅固な防御に対して絶望的な攻撃を強いられたのである。両者の装備を踏まえると、どう考えても砲兵を持った極を都市の防御陣地攻略、持たない檜を第二線に配置した方がいいのではないかと思ったが、ざっとインターネット上で検索して調べたところによると、どうやら日本軍は都市攻略よりも敵の野戦軍の撃破に重きをおいており、衡陽には最低限の二個師団しか割かなかったようであるらしい。確かに支那事変から続く日中戦争のここまでの経緯を見ていると、 都市や交通の確保よりも野戦軍の撃滅こそが重要であることは理解できるが、それでも衡陽攻略の描写のあまりの悲惨さを読んでいると、『203高地』の映画を見た時のような、言い知れぬ悔しさと憤りを感じさせられる。

 

 そしてこの著作において最も心を打ったのが、野戦病院で働いていた衛生兵の証言であった。物資の欠乏する中で多くの負傷兵が担ぎ込まれ、薬もなく何の治療もできないどころか、食べ物すら与えることができず、多くが栄養失調で死んでいく。そんな中で伝染病が蔓延し、死体の山が築かれ、衛生兵たちの心も半ば狂っていくという、まさにこの世の地獄のような描写であった。

 病院では食べ物が殆ど得られないからと、片腕を失っているにも関わらず、住民からの現地徴発で少しは食うことの出来る前線の原隊へと復帰しようと試み、病院を脱走した兵隊もいたという。

 全ての元凶は、補給をろくに与えずに人命軽視の作戦を結構した軍なのではないか。仮に日本が自国の国力をわきまえ、補給を維持できるだけの戦線拡大しかしなかったならば、このように現地の住民が食料を取られて飢え、取った兵隊たちもそれだけでは食えずにまた飢えて死ぬというような悲劇は起きなかったであろう。

 無論、はじめから無謀な戦争だったのだと言われればそれまでなのであるが、それならばもっと早期の講和の手段を探ることも出来たのではないかと考えてしまう。

 

 話は変わるが、この慰霊団が訪れた当時、昭和末期の中国(この当時の中国で日本人の慰霊行為は禁止されていたのであるが、ガイドは黙認していたようである)には、未だに戦争当時の地形がかなり残されていたようである。改革開放から始まる経済発展を経て、城市を囲む古い城壁は開発の邪魔であるとして多くが破壊され、農村部からの流入で都市人口が増加、郊外まで都市圏が拡大し、多くの新道や新鉄道が通った現代の中国では、このように往時を偲べるほどの地形は残っていないのではないかと思った。これは他の史跡や、伝統的な風景そのものについても言えることであり、別に中国に限った話ではないのだが、考えてみると少し残念なことである。

 

 余談だが、こちらの本でも前回読んだ本と同様、兵隊たちの間の流行歌として『椰子の実』に言及されていたのが興味深かった。当然のことではあるが、流行歌というのは部隊の区分を超えて同時多発的に起こるものなのだということを確認できた。

 

たけさんぽ 第一弾 台風19号一過巡検

 我が国を襲った忌々しき台風19号が遥か北方へと過ぎ去り、痩せ衰えて洋上に消滅するという醜悪な最期の姿を晒した10月13日、私は夜中に騒々しかったこの台風による影響を観察するための巡検と銘打って、ただの日帰りの放浪の旅へと出かけた。

 色々と台風一過特有と思われる景色の写真が撮れたので、一応世間様に共有しておきたいと思い立ち、その道中を記事にすることにしたのであるが、今後もこのような時事ネタを扱った、あまりアカデミックな内容ではないレポートを書くことがあるだろうと思い、シリーズ名をつけることにした。

 それこそが表題からもお分かりの通り、「たけさんぽ」である。私のペンネームの諱部分である「武一」に由来するシリーズ名なのであるが、私は他人の意見を横取りして我が物顔に扱うことが好きではないので、これを考えたのは大学の友人であることをここではっきりと示しておく。本当はこの「たけさんぽ」は、友人たちに現在執筆中の夏の中山道旅行のシリーズ名を募集した際に、案の一つとして出たものの、シリーズ内容にそぐわず不採用とさせていただいた案なのであるが、なかなかに語感が良く、無下にするのもあまりに忍びなかったので、ここで使わせていただく運びとなった。

 

 さて、遅い起床の後に表へと足を踏み出した私は、早速転がっている壊れた傘や、風になぎ倒されたと思しき愛用の自転車などに驚かされ、また浸水を防ぐためにマンションの入り口に並べられた土嚢などに非日常を感じさせられたのであるが、これらの写真を貼って自宅特定され、狂人の凶刃に倒れるのも癪であるので、ここでは割愛させていただく。

 前日からずっとニュースで川の氾濫の話を見聞きし続けていた私は、東京の河川が今どうなっているのかをこの目で見てみたいという好奇心が湧き、ひとまず東京湾に注ぐ多くの河川が集中する東京東部へと向かうことにした。

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 そうしてやって来たのが隅田川である。315号線の橋の上から、澄んだ青空に聳えるスカイツリー方面を眺めると、なるほど確かに水がなみなみとして見える。心なしか水が濁っているようにも感じられるのは、きっと上流で多くの土砂を呑んだからであろう。そこから私はさらに東へ進み、荒川を目指した。

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 14号線の中川新橋から、北東方向に旧中川を望む。これもかなり水量が増しているように見え、水面が緑地付近すれすれにまで迫っている。ここから東へ進めば目的の荒川はもうすぐだ。

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 国道14号線脇から荒川土手の線へと達した私は、そのまま江戸川を目指そうかとも迷ったが、結局西側の河岸を南進することにした。土手下の河原には草木が生い茂っており、あまりしっかりと川面を見ることが出来なかったが、旧中川が合流する荒川ロックゲート付近に達したあたりで視界が開けたので、ここで多くの写真を撮影した。
 私は川面をまじまじと覗き込んで驚いた。ミルクティーかと見まごうばかりに濁った土色をしているのである。上流でいったいどれほどの土砂が流入したのであろうかと考えると、想像を絶するものである。

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 そのまま南下を続けた私は、しばらく後に遂に河口へと達した。湾岸線の橋のシルエットと葛西臨海公園の観覧車が青空によく照り映えている。東京湾から吹き込んでくる潮風が心地よい。

 付近の道端には「新砂」と書かれた駅のような看板の表示があったので、よく見てみると船着場のようであった。周囲にチケット販売所や案内所、路線図のような施設は無かったが、どのような航路でどのような目的の船が運用されているのであろうか。謎は深まるばかりである。

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 一応台風の影響の巡検と銘打って家を飛び出したので、周囲でそれらしきものを探してはみたが、見つかったのは川面に浮かんだ大きな流木程度であった。海を目指してどんどん流れていくが、一体どこから来たのであろうか。それは本人だけが知っていることである。

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 船着場の脇から更に川辺へと降りていくと、川面へと続く階段の最下段に大量の泥が堆積し、干上がって固まりかけているのが見て取れた。おそらく水位が少し前までこの段まで上昇しており、河川によって運搬された土砂が堆積した後に水が引いたのであろう。人の足跡や自転車の轍、更には水鳥の足跡がはっきりと残っていて面白い。まるでそのまま化石になりそうな勢いである。

 私はその傍らに大量のカニがあることに気づいて腰を下ろし、顔を近づけたのであるが、やがてすぐにそれらに何か違和感があることに気がついた。皆死に絶えてじっと動かないのである。文字通り立ち往生したカニの骸が静かに立ち並ぶ光景は異様なものであった。死因が何であったのかは分からないが、恐らく増水や水の濁りなど、台風に関わる何かであることは間違いないであろう。私は標本のように綺麗な形を留めたままに死に絶えたカニたちのその姿に、単なる儚さのみならず、どこか形容しがたい不気味な美しさを覚えた。

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 そんなカニたちの静かな地獄には無関心とでも言うように、台風の影響などものともしないかのごとく、平和そうに川面に浮かぶ水鳥たちの姿を見ながら、私は踵を返して河原を後にした。その折、川の方向に対しても「新砂 リバーステーション」という船着場の看板が立てられていることに気がついたが、船がやってくる気配は一向になかった。

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 その後私はお台場方面へと向かった。こちらで観察できた生々しい台風の被害は、有明コロシアムから伸びる484号線上の道路脇にある街路樹が、その支柱とともに倒れたらしく、その残骸がトラックに乗せられて撤去されている様子程度であった。被害が少ないのは何より喜ばしいことである。

 確か484号線の豊洲大橋からであっただろうか、水産庁の東光丸という船舶が停泊している様子が観察できた。

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 最後に、確か同じく484号線上の富士見橋から撮影できた、美しい風景写真を掲載して終わろうと思う。橋の上から西を向くと、美しく夕焼けに染まったレインボーブリッジを、反対に東を向くと、ビルの合間から顔を出した輝かしい満月を観察することが出来た。一地点から同時にこのような美しく、対照的な景色を満喫することが出来たのも、台風一過の澄んだ空気の賜物であろうか。

 様々な小さく身近な発見を重ね、大いに心を満たすことが出来た逍遥の一日であった。