仕方アルマジロ

大学生活の記録

『河口慧海日記』所感

 本日、「河口慧海日記」(講談社学術文庫、2007年5月10日)を読了したので、その所感を書き残しておこうと思う。

 

 この本はその名の通り、20世紀初頭にインドからネパール、チベットへと求法の旅に出た日本人僧である河口慧海という人物の日記を活字化したものであり、また彼の軌跡を追った記録も並べて収録されている。

 慧海は日本仏教の腐敗、宗派ごとの漢訳経典の解釈の相違、また経典内の脱落箇所などの問題を受けて、本当に正しい経典を求めるため、当時世界的に見て最も原典に近い仏典が残っていると言われていたチベットの地を目指した。彼の旅の動機はただその純粋な信仰心一つと言って良いだろう。

 

 当時のチベット鎖国中であったため、慧海はネパール奥地、トルボ地方からの秘密裏の国境越えを図る。その過程では当然道案内や荷物運びの人を雇わねばならぬ他、地元民しか知らないような現地の間道などの情報が沢山必要なわけであるが、慧海はこれを難なくやってのけている。それどころか行く先々で親切な援助者を見つけ、また高僧や土豪からネパールの首相に至るまでの広い人脈を築いているのだ。このようなところに彼の人望を集めやすい実直な人柄と、情報収集能力の高さが伺える。

 

 だが、記録に残る上では慧海が日本人で初めて踏み入ることになるヒマラヤの高嶺は、そう簡単に乗り越えられるものではない。ろくにインフラの整備されていない山間の危険な道の中を、吹雪や雪崩、土砂崩れ、高山病などの自然の猛威に晒されながら、橋なき川を渡り、慧海は命からがら乗り越えていく。負傷や体調不良に関する描写は読んでいて非常に痛々しかった。また、強盗に遭うシーンも多くあった。

 また、慧海がインドで親睦を深めたインド人チベット学者サラット・チャンドラ・ダースが、以前チベット密入国した人物であったこともあり、外国人に対して疑心暗鬼になっている現地人の間に、「慧海はイギリスの密偵であり、政治的な意図を持ってこの地の情報収集を行なっているのではないか」という噂が立った。このことも道中大いに彼を困らせ、現在の滞在地にまで噂が広まる前に先へ進まねば、と常に彼を追い立てた。

 慧海がネパールから一度目のチベット入りを果たすのは丁度1900年のことである。1907年に結ばれた英露協商においてロシアとイギリスの間でチベット清朝冊封体制下の相互不干渉の地域と定められ、緩衝地帯となったことを踏まえると、やはり当時英露両国がチベットの地を巡って「グレートゲーム」を行なっていたのであろう。このような国際情勢こそがチベットをここまで閉鎖的にし、そして純粋な信仰心からこの地を目指した慧海の行く手を阻んだのではないだろうか。

 慧海はこの過酷な旅の中でも非時食戒、すなわち午後に食事をしないことなどの戒律を守り続けていた。彼の信仰心の深さと生真面目さはまさしく尊敬すべきものである。

 

 僧であり、また旅人であると同時に、慧海は博物学民俗学的にも優れた功績を残している。慧海が旅先で纏めた記録には、現地の風俗や動植物が詳細に記録されており、一級品の資料となっているのである。

 中でも気になったのは、慧海が記録したチベットの鳥に「荼枳尼」という名がついたものが存在することである。荼枳尼とはヒンドゥー教において葬儀場の林に現れるとされる恐ろしい女神のことであるが、確かチベット文化には鳥葬、すなわち遺体を鳥などに食わせる葬儀の仕方があるということが以前読んだチベット旅行記(カイラス巡礼に焦点を当てた作であったが、題名などは忘れた)に書かれていた記憶があるので、もしかしたらこの鳥は鳥葬の場に頻繁に現れるものであり、そのことが由来となって荼枳尼の名がついたのではないか、などと考えた。

 また、慧海はヒマラヤ山中の壮大な眺めをも仙境のようであると記録しているため、彼の日記を読んでいたら無性にヒマラヤ・チベットに旅行したくなってしまった。この気分は本の後半に添えられた、慧海の軌跡を辿った現代の記録を読み、現地の写真を見ているうちにより一層強まった。

 

 最後に日記の中で個人的に面白いと思った箇所を纏めて終わろうと思う。

 まず一つが、ある渡河に関する記述である。チベットは内陸部の乾燥した高原であるが、高所であるが故に降雪はそれなりにあるため、その雪解け水からなる大小の河川が流れている。しかしインフラが未発達であった当時はその川に架かる橋があまり存在しない。そこでしばしば浅瀬を徒歩で渡ることになるわけだが、慧海がある川において水量が多くて渡れなかった時の、案内人の提案が面白かった。案内人は明朝になれば水量が減るから、その時に渡れば良いと言ったのだ。これは夜間は寒さで雪解けが進まず、雪解け水の川への流入が少なくなるためである。このような現地の人の生活の知恵を知るのはとても面白い。
 そしてもう一つ面白かったのが、慧海がシェー(水晶山)という地を訪れた際、現地の信仰について書き記した部分である。このシェーの地には多くの奇岩が存在し、現地ではそれが過去の聖人の修行の跡であるとして崇められていたのであるが、慧海はこれを自然崇拝教と結びついた擬似仏教であり、正しい仏教信仰のあり方ではないと言って一刀両断している。更には「余は彼らの崇拝に嘔吐を催して、その愚を憐れむの外(ほか)なかりき」とさえ書いて、凄まじい嫌悪感を示しているのだ。慧海はこの二日前の記録において、この地に到着した際にあまり待遇が親切ではなかったと書いているので、真面目で一途な信仰心を持つ彼が間違った仏教信仰に嫌悪感を覚えたことのほかに、もしかしたらシェーの人間への不快感も重なって、このような辛口な記述になっているのかもしれない。シェーの人の態度が悪かったのは、おそらく前述の噂が広まっていたからであろう。
 また、この日記の所々には慧海が現地で詠んだ短歌が挿入されている。歌の元となった体験に関する記述を踏まえた上で、それらの歌に目を通すのもまた興味深い。また、彼は時々自作の短歌をチベット語に意訳しており、歌人としてもかなり教養の深い人物であることが伺える。

 

 ここまでを読んでこの本に興味が出た方のために、さしでがましいながらも一応助言を載せておく。

 慧海が明治の人間である以上、慧海日記は漢文調であり、その文体は言うなればほぼ漢文の書き下しのようであるため、現代文に慣れた現代人には少々読みにくい。そのため、人によっては後半の現代文パートを読んで概要を把握してから、前半の日記を読む方が内容がより頭に入って来るかもしれない。

 読む際に参考にしていただければ幸いだ。

 

参考文献

河口慧海日記」(講談社学術文庫、2007年5月10日)

「世界史の窓」(2019年4月9日閲覧 https://www.y-history.net/appendix/wh1402-093.html)

「世界史の窓」についてはインターネット上のソースであるため信憑性が不十分であるが、受験世界史のテキストにも同様の記述があったと思われるので後ほど確認、更新しておく。