仕方アルマジロ

大学生活の記録

『日中戦争とイスラーム 満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』所感

 大学生活の多忙により長らく時間がかかったが、坂本勉『日中戦争イスラーム 満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』(慶應義塾大学出版会、2008年3月25日)を読了したので、ここに所感を書き残しておく。
 この本は五部に分かれた論文集のような形で構成されており、第一部が蒙疆政権、第二部が満鉄の工作、第三部がオスマン皇帝の末裔、第四部がタタール人コミュニティ、第五部がマレー・蘭印統治時代の宗教政策について焦点を当てている。
 

 まず第一部、二部などを読んで、日本軍が思ったよりも中国西部へ手を出していたことを知ることが出来、とても興味深かった。今まで日中戦争期の蒙古聯合自治政府のイメージが強かったため、せいぜい綏遠省あたりまでしか日本軍の工作は行われていなかったのではないかと思い込んでいたが、実際は新疆方面にまで工作の手が伸びていたことに感心した。しかし、この地域における日本軍の活動の根幹が常に「反共勢力の形成」「対ソ包囲網の形成」であるあたり、日本が如何にソビエトの強大な陸軍力を警戒していたかが見て取れた。
 また、内蒙古における蒙古人に対する宣撫工作の背景に、ウラルアルタイ系を母語とする日朝満蒙の四民族が大同団結し、ロシアや中国に対抗するトゥラン主義という、漢人も含めたアジア主義とは少し異なる思想があったことも初めて知る事実であった。
そしてこのような蒙古人宣撫と共に行われたのが、近い地域に居住する回民(漢系ムスリム)に対する同様の工作であるが、まず回民が中国北部に広く居住している事実に驚かされた。
 そして今までネット検索で殆ど情報が出て来なかったが故に曖昧な認識であった、内蒙古の一部を指す「蒙疆」という地名の意味も、今回漸く正しく認識することができた。これは日本軍がこの地に蒙古人を主体とする傀儡政権を築く際、「蒙古」と呼んでしまうと同地の南部を中心に居住する回民を蔑ろにしてしまうと考え、「蒙古人の土地」という意味であえて曖昧な「蒙疆」という表現を使ったために生まれた言葉なのである。この地名は「蒙疆聯合委員会」として傀儡政権の名称ともなったが、この地を「蒙古」と認識するモンゴル人からは反感も強く、その後の改組では「蒙古聯合自治政府」へと名称が変更された。この政府の首班の蒙古人である徳王は、来日した際に通訳が自分のスピーチにおける「蒙古」という表現を毎回「蒙疆」と直して記者や聴衆に伝えることに腹を立てていたようである。逆に言えば日本はそれほどまでに回民に対して気を遣っていたのだ。「蒙疆だより」「蒙疆ぶし」などの当時の歌曲の題名も、やはりこのような国策的な「蒙疆」の使用に影響されているのではなかろうか。

 また、国民党による回教徒への工作も存在し、それが日本による工作と対立していたこと、そして国民党の方が回民の通商ルートを抑えるなど一枚上手だったことも、新たに得られた知識であった。

 

 第三部、四部を読んで驚いたのは、ロシア革命に際する満州や朝鮮、日本への亡命タタール人を懐柔する過程において、日本とトルコが対立していたことであった。なんとなくエルトゥールル号事件以降、日本とトルコは仲がよかったものとばかり思っていたからである。しかし実際のところ、スルタン制復古を嫌い、アナトリア主義を貫こうとする、ケマル=アタテュルクを首班とするトルコ共和国と、オスマン皇帝の末裔やパン=イスラーム主義者を用い、ユーラシアのタタール人およびムスリムを遍く纏め、アジア主義の一環として利用しようとする日本の方針は完全に相容れないものであり、両国の関係は不穏であったようだ。

 また、現在も渋谷にある東京モスクは、この時代に世界のムスリムの信頼を集めるために、日本が国策的に建設を行ったものであるようだ。このモスクの開堂を主催したのは、日本が工作活動に利用していた、国内外のタタールムスリムに強い影響力を持ったトルコ系タタール人のアブデュルレシト=イブラヒムである。実際にこのモスクの建設後、日本は新たなイスラームの保護者としての頭角を現した。このモスクは現在私が通う大学の駒場のキャンパスからもさほど遠くないので、近いうちに訪れてみようと思う。


 また、第五部に書かれたインドネシアやマレーにおける日本の占領期の宗教政策についての記述も興味深かった。日本軍は民心把握に失敗することを避けるために、既存の宗教権力や信仰の自由を承認し、維持した上で、それを利用していこうと考えたのである。

 確かに日本は占領地に神社を建立するなどしたが、そこに現地の住民を強制参拝させた事実は確認されておらず、「日本が神道を押し付けた」という認識は誤りであったのだ。ただし宮城遥拝のような政治的な行いが、ムスリムにとってみれば礼拝に対する冒涜と感じられたりするようなことはあったようだ。また、モスク内部の神聖性に関する認識も、日本人と現地人の間に齟齬があり、トラブルが発生することもあったようである。どれも異教に対する認識が不足していたが故に起きてしまったもどかしい過失だ。

 また、日本側の政策を見るに、自国の宗教と全く価値観の違う異教徒を治めることには、やはり恐れもあったようで、そのような「イスラームへの恐怖、不信感」などは「信教の自由の保護」を謳っていながらも隠しきることが出来ていなかったようである。現地人にもそのような「イスラームへの恐怖」は見抜かれていたようだ。ただし、日本の行ったイスラーム勢力の統合や、ムスリム部隊(回教青年挺身隊、ヒズブラー)の編成・訓練は、その後の対蘭独立およびインドネシア政治の中に於いてイスラーム勢力が活躍する上で一役買っているという評価もあるようだ。

 

 この一冊は日露〜日中戦争期にかけて興り、敗戦と共に消滅した日本の最初のイスラーム研究の背景と内実を知る上で、非常に良い手がかりとなる素晴らしい一冊であると思う。