仕方アルマジロ

大学生活の記録

甲州街道自転車紀行一日目 「関の弥太っぺ」舞台探訪

 先の6月1日から3日にかけて、私は折りたたみ自転車と電車を併用して甲州街道を旅行してきたので、その旅路の記録をここに書き残しておこうと思う。そもそも何故こんな旅に出ようと思ったかというと、それはひとえに関の弥太っぺに憧れたからである。私は元々股旅ものが好きで、旅人ぐらしに憧れていたが、先日の記事で書き記した通り、映画「関の弥太っぺ」を見て感銘を受け、居ても立っても居られず飛び出した。

 ちなみに月曜日であるはずの3日が休みであったのは、東京大学では中間試験が理系科目にしかなく、その間文系は休みとなるからである。これによって3、4日が休みとなり、棚から牡丹餅のような四連休が形成されたので、私はこの好機を逃さず旅へと飛び出した。

 まず、この記事では一日目の行程について触れていこうと思う。 

 

 予定では昼過ぎに高尾駅に到着し、そこから小仏峠を越えて相模国に入る算段であったが、前日まで課題が忙しすぎて旅行の準備が真面に行えていなかったせいで、高尾到着が二時間以上遅れてしまったため、計画を変更して相模湖駅まで向かった。高尾駅に乗り換えで降りた際、ホームに残る太平洋戦争中の米軍戦闘機による機銃掃射の弾痕を確認しようと試みたが、折りたたみ自転車の重さが故に思うように身動きが取れず、断念して電車に乗り込んだ。

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 私は23区の大都会とは全く雰囲気の異なる山間部の明媚な風景を眺めながら、東京都に別れを告げた。長いトンネルを抜けると愈々そこは相模原市であった。間も無くして私は相模湖駅に降り立った。

 時刻は既に15時半を回っていたが、私は朝食以来未だ何も口につけておらず、腹の虫が鳴いていたため、これでは輪行できないと思い、まずは腹ごしらえをすることにした。

 私は駅前で蕎麦屋「濱陣」の看板を見つけ、吸い込まれるようにそれに誘われて進んだ。盛りそばが400円と非常に手頃な価格であったため、それを注文した。味も良好であった。カウンターに置かれている爪楊枝が折り紙の服に入れられているのが非常に洒落ていた。

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小原宿

 運動に支障がない程度に腹を軽く満たして店の外へ出た私は、甲州街道を東へ戻って小原宿を目指した。郷土資料館があるらしい、道の駅的な存在である「小原の郷」は16時半まで営業していると聞いていたのだが、この時まだ16時10分であったにも関わらず、既に閉館していた。小原宿の本陣も見学することが出来たようだが、この時もう既に営業時間を過ぎていたので、また出直すことにして先へと進んだ。宿場跡の風景にはどことなく往時の情緒が感じられた。

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 資料館を一つも見られなかったことを少し残念に思い、後ろ髪を引かれながらも、私は小原宿を後にし、踵を返して西を向き、次の与瀬宿を目指して進んだ。

 相模湖駅の前を再び通り過ぎて更に進むと、途中、左手の眼下に相模川をせき止める巨大なダムが現れた。この向こう側に見えるのが相模湖である。

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与瀬宿
 しばらく進むと「明治天皇與瀬宿御小休所趾」と刻まれた石碑が現れた。このあたりがかつての与瀬宿であろうか。確認できた遺構はこの石碑のみであり、本陣や旅籠などの跡地は何も残っていなかった。

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 更に進むと与瀬宿の一里塚の跡地があるはずであった。一里塚とはその名の通り、街道に一里ずつの間隔で築かれた塚、すなわち盛り土であり、その上に木が植えられるなどして旅人の目印や休憩所としての役割を果たしていたものである。

  私は「旧街道ウォーキング」様の情報を元にそれを目指して進んだのだが、途中、サイト内の地図上に記載されている、「ラーセン餃子ネットショップ」の裏手のあたりで、現在の甲州街道から旧街道へ逸れ、山道を抜けて裏道へ進み、一里塚の前へと出る道が見つからなかったので、仕方なく先へ進んで回り込む形で一里塚を目指した。

 

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 一里塚の跡地には木の柱が立つのみで、盛り土の痕跡などは何も残っていなかった。ただ柱の後背部に広々とした空き地があるのみであった。私は来た道を戻って更に旧街道を先へ進んだ。道中の道祖神や看板、山村の風景なども非常に情緒に溢れていた。

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 暫く進むと「甲州古道 赤坂」と記された看板が現れ、道が舗装路から山道へと逸れた。私は自転車を押してこの古道を下った。途中、道外れに廃車を見つけた。道を抜けると「椚戸」なる場所に出て、元の舗装路へと戻ったので、再び自転車に跨って先へと進んだ。

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吉野宿
 赤坂を抜けた先の細い道をずっと下って行くと、「吉野宿 高札場」なる看板が目に止まった。どうやらいよいよ私は吉野宿へと入ったようである。映画「関の弥太っぺ」の舞台であるこの宿場は、今回の旅の第一の目的地である。映画のシーンを思い出して自然と心が高揚して来た。

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 やがて現在の甲州街道へ再び合流した。道なりに西へ進めばそこは吉野宿の本陣跡である。この本陣の宿主であった吉野家は、鎌倉時代承久の乱の際に天皇方に従って宇治勢田で北条義時軍を破るも、その後の戦いに破れてこの地へ移り住んだ、歴史ある家であるそうだ。跡地には「聖蹟」と刻まれた石碑と、往時を偲ぶ写真の付いた案内板があった。明治13年行幸の際、この本陣にかつて明治天皇が二階に宿泊されたらしい。先ほどの与瀬をはじめ、この街道沿いにしばしば見受けられる明治天皇に関わる石碑は、皆この行幸の際のものなのであろうか。当時の本陣は5階建ての立派な木造建築であったが、残念ながら明治29年の火災で焼失してしまったようだ。

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 街道を挟んだ向かい側には、現在は資料館となっている「ふじや」という宿場の跡があったが、これもまた営業時間外であり、中を観覧することは出来なかった。一通り見て回った後、私は更に西へと進んだ。

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 ふじやのすぐ西には沢井川という相模川の支流が流れていた。映画「関の弥太っぺ」の劇中で描かれた、弥太っぺがお小夜を預けた旅籠の名前は「沢井屋」であったが、それはこの沢井川から取られているのであろうか。

 この沢井川にはかつて「小猿橋」という橋がかかっていたという案内板があった。甲斐の猿橋(二日目の記事で紹介)と同じ工法で作られたものであったことがその名の由来らしい。今はその影は無く、代わりにコンクリートの吉野橋がかかっていた。往時を偲びつつ、私はこの橋から沢井川を渡河し、更に西へと進んだ。

 

参考:映画「関の弥太っぺ」所感

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 その後更に甲州街道を西へと進み、途中で南へ逸れて相模湖にかかる橋を渡った。途中の橋から見た湖面には沢山のボートが浮かんでいた。そういえば、弥太っぺは妹を訪ねて茨城の取手へ向かい、甲州街道を西から東へと行く途中でお小夜を保護し、吉野宿の沢井屋へ送り届けたのであるから、途中で溺れるお小夜を弥太っぺが助けた桂川(相模川山梨県内での呼び名なので、この近辺はまだ「相模川」であるのだが、映画内で厳密に県境に基づいた呼びわけがされているとは考えにくい)、またお小夜の父が斬られた雑木林のモデルはこの橋のあるあたりなのではないだろうか。しかし、ダムが出来て相模湖が形成された今は、映画の舞台である江戸時代の風景とはまた違ってしまっているであろう。私はそんなことに思いを巡らせながら対岸へと進んだ。

 目的地は今日宿泊する民宿、「天狗岩」である。釣り堀を併設するこの宿は、素泊まり3500円と格安であった。部屋は三部屋ほどしかなく、要予約という小規模な宿であるが、当日朝の予約でも受け付けていただける親切な宿であった。

 宿のエントランスの天井や壁には大きな鮒の魚拓が沢山飾ってあり、釣り宿らしい雰囲気を醸し出していた。宿主のおばあさんがこの宿に釣りに訪れる人々のことを色々と語ってくださった。ヘラブナの大きさを競うイベントがあり、老いも若きも揃った釣り団体がこの民宿をよく利用するらしい。年寄りが抜けていってもまた新しく若いメンバーがどんどん加入するため、団体の人数は一定に保たれているそうだ。

 部屋は襖で仕切られているだけであるので、隣室の音は丸聞こえであるほか、Wi-Fiなどは存在しないが、それらを気にしなければ静かで非常に居心地の良いところであった。ただし、私は夜間隣室のいびきに悩まされた。

 窓の外には可愛らしいヤモリの姿があったので、その写真も掲載しておこうと思う。

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 宿について荷物を置いた私は、自転車で隣の上野原駅を目指した。というのも、旧街道は駅前から逸れてしまうため、駅の周辺の風景を見ておけないのは少し勿体無いような気がしたからである。駅前のホームセンターでの買い出しと、ラーメン屋の幸楽苑での夕食も兼ねていた。道中、夕日に照らし出された山蔭と桂川の風景が美しかった。

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 帰りは自転車を輪行袋に詰めて中央線で藤野駅まで戻り、そこから自転車を漕いで宿へと帰った。上野原駅は山の上を通る線路のところにホームがあり、その高さまでエレベーターが通っているため、外から見るとなかなか巨大な構造物として見て取れた。 
 帰着後入浴し、就寝、一日目はこうして幕を閉じた。浴場は大浴場では無く、家庭用の風呂を少し大きくした程度のもので、浴槽は一つしかなかったので、各宿泊グループが交代で使用するような形であった。疲れた体に湯の温かさが染み渡った。

 

甲州街道自転車紀行

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