仕方アルマジロ

大学生活の記録

甲州街道自転車紀行二日目

 以前の記事で一日目の行程を纏めたのに引き続き、今回の記事では甲州街道自転車旅行の二日目、すなわち6月2日の行程を纏めていこうと思う。この日はほぼ一日中、旧甲州街道に沿って西へ西へとペダルを漕ぎ進んだ。

 起床時間によっては来た道を少し戻って、10時に開館する吉野宿ふじやの資料館に寄ってから先へ進もうかとも考えたが、宿泊していた民宿は隣室との間の防音がほぼ無かったため、隣の部屋の宿泊者が6時ごろに部屋を出る際の音で目覚めてしまったので、そのまま開館を待たずに先へ進むことにした。朝食には前日夜に宿のすぐそばのコンビニで買い出しておいたパン一つを採った。今思えば少なすぎた気もする。

 相模湖にかかる橋を再び渡って甲州街道に合流し、そのまま道に沿って西へと進んだ。

 

関野宿

 藤野駅前を過ぎて更に行くと、関野宿の跡地に差し掛かった。跡地には往時を偲ばせるような家並みのほかに、ひっそりと佇む説明板があった。残念ながら昔の町並みは数度にわたる火災で焼失してしまったようだ。ここが相模国、すなわち神奈川県内で通る最後の宿場である。もう少し行けばそこからは甲斐国、すなわち山梨県だ。

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 途中で進行方向右手の山際にある、現在は廃校となった旧小渕小学校の前に一瞬寄り道し、今は使われていない校舎を眺めてノスタルジックな雰囲気を味わった後、再び甲州街道に戻るもすぐ旧道に逸れ、急坂を下って桂川(相模川の上流での名称)の川辺に迫った。桂川の支流に掛かった小さな堺沢橋を渡ると、その橋の名の通り県境を越え、そこは愈々山梨県である。

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 ここからヘアピンカーブの連続する急な坂を延々と登っていくと、その天辺近くには諏訪関所跡がある。堺沢橋から間違って直進して桂川を渡ってしまわないように気をつけられたい。というのも、私はここで危うく道を間違えかけてしまった。

 

諏訪関所

 さて、やっとのことで坂を登り切ると、右手の斜面上に「諏訪関跡」と刻まれた小ぎれいな石碑が現れた。その並びには諏訪の関所の歴史を記した説明板が立ち、道を挟んだ反対側の路肩には甲州街道の史跡を記した地図を載せた案内板が立っていた。諏訪関跡の石碑の横の小さな石碑に「鎮魂碑」と刻まれているのは、ここでかつて何かがあって人が亡くなったのであろうか。説明板をざっと読み通したが、その手がかりとなりそうな情報は無かった。番所の建物の遺構は残っていなかった。

 ようやく平坦になってきた道を、自転車にまたがって更に先へと進んだ。

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 しばらく道なりに進むと、右手に赤い鳥居の疱瘡神社が姿を現した。道路に面した鳥居の隣にある説明板を見るに、どうやら塚場一里塚の跡地が境内にあるようだ。私は鳥居のしめ縄を手入れしていた地元の方々と会話を交えながら、自転車を降りて境内へと足を踏み入れた。
 境内には朱塗りの小さな祠と、その裏にある一里塚を指し示す立て札があった。祠の脇道を奥へと進むと、こんもりと盛られた土の山があった。これが塚場一里塚の跡である。かつては塚の上にカヤの木が植えられていたらしい。

 地元の方々によると、どうやら本当の旧甲州街道はこの塚の更に向こう側の斜面の方を走り、向かって左手の方向(北西方向)で現在の甲州街道(国道20号線)に合流していたようだ。すなわちこの時私が進んでいた道と国道20号線の中間地帯が旧甲州街道なのだということである。

 地元の方々はとても親切であり、私に「どこまで行くの?」「旅するのにはいい自転車だね」などと気さくに話しかけて下さった。「どこから来たの?」ではなく「どこまで行くの?」と聞くあたりに、旅人の中継地点としての宿場町の名残を感じ、私は気分が高揚した。「甲府まで」と答えると、「甲府じゃまだまだ遠いよ、でも自転車ならあっという間かもね」「笹子のあたりが険しいぞ」などと言いながら励まして下さった。

 優しい地元の方々と笑顔で手を振って別れ、私は更に先を目指した。この記事を書くにあたって塚場の方々との会話の情景を思い出してみたところ、何故か感傷的になって涙が込み上げて来てしまった。これこそが旅の一期一会の良さ、ありがたさである。

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上野原宿 

 やがてこの「旧甲州街道」も現在の甲州街道である国道20号線と合流し、そのまま小さな町の中へと入った。昨日訪れた駅からは少し北に離れているが、上野原市街地の一角である。

  この辺りはかつての上野原宿の跡地であり、Google Mapの表示によると本陣跡が路地裏に残っているとのことであったので、私は少し車を降りて脇道へと逸れた。地図で示された地点にあったのは、Google Mapに掲載されている写真と同じ、歴史ある門のような構造物であったのだが、これに関する案内板などは何一つ無かった。門をくぐった先は明らかに私有地と思しき駐車場であったので、敢えて立ち入って探索することはしなかった。

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 再び国道20号線上へと舞い戻って車を進めた。ここから鶴川宿まではそれほど遠くは無い。少し進んだところで道は右へと逸れ、再び国道20号線とは暫しの別れとなった。鶴川のほとりへと斜面を下る大きく蛇行した車道の脇には、立て札と共に旧甲州街道の道筋があった。自転車を降りて押しながら細道を駈け下り、鶴川の河畔へと降り立った。

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鶴川宿

 鶴川にかかる橋を渡ってすぐのところに、「鶴川宿」などと書き記された古びた立て札が立ち、その陰の空き地が整備されて小庭園のようになっていた。敷地内には周辺史跡の案内地図や東屋などが建っていたため、私はここで少し長めの休憩を取り、携行していた菓子類を食してエネルギーを補給した。

 そこからすぐ先の右手の路傍には同じく「鶴川宿」と刻まれた石碑が立っていた。道なりに進んで行くと、かつての鶴川宿の宿場が立ち並んでいた跡地へと入って行く。現在もここは住宅地となっており、また今まで訪れたどの宿場跡よりも綺麗な路村形態を未だ維持している。街道筋に沿って左右に家々が立ち並び、玄関口を街道側に向けている様子は正にかつての宿場町そのものだ。

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 左右の家並みに目を配りながら宿場跡を抜けると、道は大きくカーブして大変な上り坂へと入った。必死の思いで稜線を乗り越えると、道は中央道の真脇へと繋がった。そこから高速道路を横切るように架かった橋を渡り、再び上り坂を越えると、大椚(おおくぬぎ)一里塚の跡地の石碑の前へと出た。大椚という名前の通り、塚の上にはクヌギの木が生えていたのであろうか。

 ここまでの勾配が凄まじく、折角鶴川で回復した体力が早速削られてしまったので、少し早いがここのベンチで小休止を取った。

 案内板によると、どうやら本当の一里塚の跡地はもう少し手前の、中央自動車道を越えて先ほど登って来た坂の途中であるらしい。ここに石碑があるのは本来の跡地に適当な平地が無いからであろうか。

 鶴川宿から野田尻宿までの道のりは険しく長い。そのためか両者のほぼ中間の地点に当たるここには「大椚宿発祥の地」と書かれた立て札もあった。しかしインターネットではこの宿場の名前は殆ど出てこなかったので、甲州街道四十四次には含まれないレベルのごく小規模なものであったのかもしれない。

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 一里塚跡から道なりにまっすぐ進むと、やがて道の左側に小さな砂利敷きの遊歩道が整備されているのが見えた。自転車を止めて案内板に目を通すと、どうやらここは長峰砦という街道上の要衝の跡であるらしい。

 これは戦国時代、武田信玄の家臣であった上野原の加藤丹後守影忠が、甲斐国の東からの入り口にあたるこの甲州街道を北条氏の侵略から守るために築いていた砦であると、現地の案内板には書き記されていた。

 横を走る車道に沿って作られた小さな遊歩道の中央付近には、「長峰砦跡」と刻まれた丸石の石碑があった。縦書きの名残で左から書いた横文字であるところを鑑みるに、だいぶ古い時代に建てられた石碑なのであろうか。

 遊歩道沿いにあった別の案内板には、この砦の跡地の発掘調査の経緯と結果についてが記されていた。調査結果を描いた地図を見るに、どうやら遺構の大部分は中央自動車道の開通によって破壊されてしまっているようだ。また、発掘調査の結果見つかった本来の旧甲州街道の筋も今では中央道の下のようである。

 先ほどの塚場一里塚でも地元の人から聞いた通り、やはり私が今進んでいる舗装路は本当の旧甲州街道ではないようだ。だが、現在のいわゆる甲州街道、すなわち国道20号線はここでは大きく南に逸れて中央本線の線路とともに桂川沿いを抜けている。そちらを通るよりはずっと昔の旅人に近い旅路を辿れてはいるはずだ。

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野田尻宿

 間もなくして再び中央道にかかる橋を北に向かって渡ると、私はようやく野田尻宿へと辿り着くことが出来た。本当はこの先の「甲斐の猿橋」のあたりで昼食にする予定であったが、朝食がパン一つであったせいでまだ午前中だが既にかなり腹が減って来てしまった上、携行していたお菓子も少なくなって来たため、この辺りで昼食を取り、食料も買い足そうかと思い、宿場跡に車を乗り入れた。

 宿場跡は中央を抜ける一本道を挟んで左右に古民家が立ち並び、情緒あふれる光景を織りなしていた。しかしその並びの中に店舗と思しきものはなく、予想に反して食料を手に入れることが出来なかった。水分も枯渇しかけていたが、自動販売機を見つけることも出来なかった。

 Google Mapによると宿場跡の中央部に石碑が立っているとのことであったが、地図に示された場所には無かった。怪訝に思いながらも目を凝らしつつ先へ進むと、宿場の甲府側の出口付近にそれはあった。「野田尻宿」と刻まれた、小綺麗で新しそうな石碑であった。また、ここにも明治天皇行幸に関する石碑があった。かつての甲州街道の宿場町の人々にとって、陛下の行幸はそれ程までに心に刻まれる出来事であったのかもしれない。

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 インターネット上のサイトで見た旧甲州街道の情報に従い(実際はそこから一本ずれた道を行っていた可能性がある)、野田尻宿から暫く中央道の北側を西進、その後南下して中央道の下を抜けるトンネルを通り、坂道を登って県道30号線と合流した。ちょうど合流地点のあたりに自販機があったので、飲料問題に関してはことなきを得た。

 しかしこの辺りにあると聞いていた「荻野一里塚」の跡が見つからなかったので、私は県道30号線を戻って探してみた。すると「山の上美術館」「志村製作所」(Google Map参照)などの更に東のあたりのカーブの手前、道の北側のへりに説明板が立っているのを見つけた。それ以外に塚の跡は見受けられなかった。しかし説明板の足元に咲く野菊の花々が美しかった。

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 踵を返して県道30号線を再び西へと動きだす。道は再び中央道に架かった橋を渡り、北へと蛇行した。橋を渡ってすぐのところで、道は県道からはずれて右手の矢坪坂へと入る。ここは1530年、地元領主の小山田信有が北条氏綱の侵攻軍を迎え撃ち、激戦の末に敗退した舞台であるようで、その説明板が立っていた。小山田氏といえば都留郡、大月郡周辺の領主であるが、相州国境にほど近いこの地域まで勢力を伸ばしていたとは驚いた。

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 ここから旧甲州街道は国道30号線の脇の山肌に沿った隘路へと入っていく。初めのうちは周囲に民家もあり、道は舗装されているのだが、やがて「熊出没注意」という不穏な看板の横を過ぎ、更に道を進んでいくと、道は森の中へと吸い込まれていった。路面は落ち葉の積もった土、すなわちごく普通の山道である。とても自転車で通るような道では無く、私は車を降りて押して進んだ。

 草をかき分け、落ち葉を踏みながら、かなり長い間この山道を進んで行くと、やがて道は山肌に沿って右へ曲がり、そこから180度ヘアピンカーブして再び右へ曲がった。この大きな湾曲部を抜けた後にあった看板を見るに、ここは「座頭転がし」というらしい。インターネットから得た情報であるが、江戸時代、前を行く人の話声を頼りに街道を旅していた座頭(盲人)が、急なヘアピンカーブに気づかずに直進し、急斜面を転がり落ちてしまったことから付いた名前であるらしい。下の画像は「座頭転がし」を通り過ぎた後に、甲府側から振り返って撮影したものであるが、道が突然湾曲し、更に崖下が非常に急な斜面となっていることが分かる。これでは座頭が気づかずに転がり落ちてしまうのも無理はない。現在はフェンスがあるためある程度は安全であるが、このフェンスの傾き具合からは足下の地盤の不安定さも見て取れる。手入れされなければいつかは崩落してしまいそうで恐ろしいものだ。

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 座頭転がしの難所を越えて更に山道を進み、ようやくこれを切り抜けると、待ち焦がれた舗装路へと再び降り立った。自転車を押して通ることしか出来なかった山道とは違い、すいすいと漕ぎ進むことの出来る舗装路のありがたさを改めて実感させられた。

 山道から繋がる細い舗装路の途中、右側に立派な門構えの屋敷が現れた。民家のようであったので全体の撮影は躊躇われたが、門の左側に「旧甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家」と書かれた札が下げられていたので、ここだけ撮影させていただいた。

 甲州街道の「新田宿」については殆ど情報が見つからなかった。このすぐ近くに犬目宿があるが、そのはずれの地域の呼び名であったのであろうか。

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犬目宿

 再び県道30号線に合流し、道なりに進んでいくと、間もなくして旧犬目宿跡のまっすぐな一本道へと入った。この宿には宿場跡を示す石碑の他に、この土地に生まれて天保の飢饉の中で一揆を指導した「犬目の兵助」の墓および生家跡があった。

 兵助の墓は宿場に入ってすぐ、道から左に曲がった路地の奥にある小さな墓地の一角にあり、案内板があるのですぐに分かる。あまり手入れがされていないのか、はたまた夏草の伸びの早さが凄まじかったのか、私が訪れた時には背の高い雑草が墓の前を塞ぐように生えており、少しいたたまれない気分にさせられた。私はそっと墓に手を合わせ、再び街道へと戻った。

 更に進むとすぐに左手に石碑、続いて兵助生家跡の案内板が現れる。案内板の見出しに「義民」という言葉が使われていることから、地元での兵助への評価の高さが見て取れる。

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 犬目宿を後にして更に進むと、道は長く険しい上り坂へと入って行った。その途中には恋塚一里塚があった。ここまでに見てきた一里塚は、塚場のものを除けば全て塚と言えるような遺構の撤去された、ただの跡地であったが、この恋塚には今も大きな塚がしっかりと残っていた。自転車を駐めてこれに登って見たところ、予想以上に急斜面である上、高さもそれなりにあってスリルがあった。往時はこの上に更に木が生えていたことを想像すると圧巻である。

 やがてこの一里塚から少し進んだところで上り坂は尽き、今度は桂川沿いまで延々と続く下り坂へと入った。位置エネルギーに任せて風を切って一気に坂を駆け下ると、ここまでの苦労も汗とともに吹き飛んでいくような爽快感であった。その途中に可愛らしいくまモンとトトロのオブジェがあったので、思わず車を駐めて写真に収めた。

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鳥沢宿

 桂川沿いまで一気に坂を駆け下り、国道20号線に再び合流すると、間もなくして鳥沢宿の跡地へと入った。何か遺構や史跡の案内板があるわけではなかったが、どことなく街並みに往時の面影があった。

 鳥沢は上野原以来の中央線の駅のある宿場であり、それなりに街の規模も大きかったので、コンビニが立地しており、漸く昼食を手に入れることができた。おにぎりを二つ購入し、一つをここで食してエネルギーを補給し、もう一つをカバンに入れて先へと進んだ。

 ここから次の猿橋宿までは国道20号線上を行く、暫く平坦で走りやすい道が続く。先ほどまでの高速道路周辺と比べて人家が格段に多いのも特徴的であった。

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猿橋宿

 やがて国道20号線桂川を跨ぎ越える橋へと差し掛かるのであるが、その手前にある分岐点のあたりに、旧甲州街道の「甲斐の猿橋」の存在を示す看板があった。それに従って分岐点を右へ進んで国道を逸れ、桂川を渡らずに進むと、間もなくして左側に、川辺の方へと下っていく階段が現れたので、私は自転車を下り、そして担いでこれを下った。

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 すると木々の合間から、桂川を跨いで架けられた美しい木橋が突然目の前に現れた。これが「木曽の桟」「錦帯橋」と共に「日本三奇橋」の一つに数えられる「甲斐の猿橋」であった。

 この記事の中では後にパンフレットで知った猿橋に関する情報を色々と書き連ねていくが、当時名前の他に何もこの橋のことを知らなかった私は、ただその曲線構造と素朴な材質に美しさを覚えながら、一歩一歩を踏みしめるようにしてこの橋に足を踏み入れた。

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 橋の中央から左右の景色を望んで、私は更に感嘆させられると同時に、大いに驚かされた。この橋が架かっているのは、深い深い桂川の渓谷地帯の高所であったのだ。橋の大きさから想像して、まさかこれ程高い位置にこの猿橋が架けられているとは思っていなかった私は、橋の縁から峡谷を覗き込んで、濃い碧の水を湛えて流れる桂川雄大な眺めを眼前にし、思わず欄干を握る手に力が込もった。

 更にこの橋の周囲にも複数本の橋が架けられていた。写真1枚目、下流側を写した写真に写る二枚の橋は、奥側の赤いものが国道20号線、そして手前側の、崖の岩肌と同じ色をしたものが八ツ沢発電所一号水路橋である。鉄筋コンクリート製のこの橋は、その名の通り八ツ沢発電所に送水するために、明治45年に建設された施設で、当時としても斬新なデザインであったようだ。峡谷の風景に溶け込んだその自然な色合いと造形には、どこか芸術性すらをも感じてしまう。生い茂る初夏の草木に隠れて確認できなかったが、この水路橋の両端、崖際の水門部分は赤レンガ造りであるようだ。

 なお、八ツ沢発電所というのは、山梨県上野原市公式サイトによると、現在の大月市の駒橋から上野原市までに至る明治・大正期の水路式発電施設であったらしい。この水路橋も、一帯の近代化、文明開化に少なからぬ役割を果たしていたのであろう。

 写真2、3枚目、上流側に写る黒色の橋は、県道505号線の橋である。

 では、何故この橋は猿橋というのか。一説によれば、その所以は橋の構造の発想の起点にあった。猿橋がこの桂川渓谷に架けられたのは、西暦600年前後の推古天皇の御時に、百済からの渡来人造園技師の志羅呼(シラコ)によってであり、その際に彼が、繋がりあって渓谷を対岸へと渡る猿の群れに着想を得て、橋脚が無く、両岸から張り出した四層のはね木によって支えられているこの橋のデザインを思いついたという伝説が、この橋が猿橋と呼ばれる所以であるというのだ。これについてはパンフレットや、猿橋の袂の案内板に記されていた。

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 さて、そんな猿橋を渡りきったところには、大黒屋という食事処があった。インターネットで見聞きしたところによれば、ここはかつて旅館をやっていた店であり、かの有名な上州の侠客、国定忠治も訪れたことがあるらしい。

 そのため、大黒屋の玄関には国定忠治の顔出し看板が立っていたのだが、その説明書きによれば、かの有名な「赤城の山も今宵限り」の台詞の後に上州から中山道へ、そして甲州街道へ抜けた国定忠治は、この猿橋の大黒屋までやってきて、役人に居場所を突き止められて包囲されたという。その時に忠治が平らげたのが、食べ慣れた野鳥肉入りのそばであり、その後彼は雨後の増水した桂川に飛び込み、合羽と三度笠を下流へ流して囮とし、自身は上流へ逃げのびたそうである。この高さの崖の上から川へと飛び込み、雨後の激流を遡上したというのは俄かには信じ難い話だが、かの有名な侠客忠治であるから、本当にあった出来事なのではないかと思わせられてしまう。

 私はこの大黒屋で、馬肉の入った「忠治そば」というメニューを頼もうと思い、自転車を畳んで入ったのであるが、あいにく店は馬肉を切らしていたので、代わりに鮎の塩焼きを頼んだ。大ぶりではらわたの臭みも少ない、良い鮎であった。値段は500円ほどであっただろうか。

 ところで、店に入るために自転車を畳んでいた時、折りたたみ自転車に興味を持った観光客の老夫婦とその娘たちと思しき集団に声をかけられ、自転車や旅の行程などの話をしたのであるが、その時に「どこから来たの?」という質問を受けた。私の中では、これがやはり先ほどの塚場一里塚で、地元の方々から「どこまで行くの?」と聞かれたことと対比され、やはり両者の問いかけの差には、一般の観光客と宿場街道の住民の間の、旅に対する意識の相違が介在しているのではないかと思われて、何となく面白さを覚えた。

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 大黒屋で食事を終えた後、私は再び甲州街道を走り出した。国道20号線へと再び出て行く道の途中の駐車場に、地元の祭りで使用されていると思しき山車と神輿の展示庫があったので、近づいて写真に納めたが、特に使用場面についての説明書きが無かったのが残念であった。

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 猿橋宿から次の駒橋宿に向かう途中の、猿橋駅付近の国道20号線の湾曲部にある阿弥陀寺の入り口の傍には、かつてここに一里塚があったことを示す小さな木の柱が立てられていたが、しかし塚の盛り土の痕跡は確認できなかった。

 

駒橋宿

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 猿橋から駒橋までは距離が短く、またさほど険しくない道であったため、あっという間に辿り着いてしまった。宿場の跡地には看板が立っていたほか、周辺の沿道には古そうな民家も立ち並んでいた。

 この後大月では岩殿山城と防空監視哨跡を見て、その後笹子峠を目指す予定であったのだが、この時点で岩殿山城の観覧に予想よりもかなり長い時間がかかりそうなことに気づいてしまったため、今後の行動計画を再考していた時、同じく自転車に乗った男性の旅人に追い越され、挨拶された。その時に「どこまで行くんですか?」と聞かれたので、なるほど、街道を旅することを意識している人も、宿場街道の住民同様、一般の観光客とは違った感覚を持っているのだろうか、と考えさせられた。これについては自分でもなかなか面白い着眼点なのではないかと思っているので、今後の旅での出会いの中でもっと会話のサンプルを増やして考えていきたい。

 

 その後、私はこの日の残りの時間を岩殿山城の観光に捧げることを決め、大月で甲州街道を北に逸れて城へと向かったのであるが、それについては長くなるので別の記事に詳細を記した。

 

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 岩殿山下山後、大月駅から中央線に乗って石和温泉へ行き、急遽そこに取った温浴施設付きの宿に泊まって翌日は甲府観光を観光することにしたのだが、電車の時間になるまで大月駅周辺を探索していたところ、駅の北側に「御太刀塚」と記された石碑を発見した。名前からして何やら武士に関わりのあるもののように見受けられたのだが、現地にもインターネットにも何ら名前以外の情報は載っていなかった。

 

 その後石和温泉駅へとやってきた私は、駅前の公共の足湯で疲れを癒した後、宿泊先であるホテルスパランド内藤へと向かい、近隣のすき家で夕食を摂り、ドン・キホーテで菓子類を買い出し、温泉施設を満喫して翌日の甲府観光に備えたのであった。

 

甲州街道自転車紀行

一日目はこちら

三日目はこちら

 

参考文献:平山優 著『新編 武田二十四将 正伝』(武田神社、2017年8月12日 初版第二刷)

パンフレット「日本三奇橋 名勝 猿橋

ほか現地の案内板

※インターネット検索で得た情報については文中に明記した。