仕方アルマジロ

大学生活の記録

甲州街道自転車紀行三日目 甲府北部探訪

 以前の記事に引き続き、今回も6月初頭に行った折りたたみ自転車による甲州街道旅行について纏めていこうと思う。この記事では旅の三日目、すなわち6月3日の行程をご紹介するが、タイトルで「甲州街道」と言っておきながら、実質的には甲府北部の観光であることを先にお詫び申し上げておきたい。

 なお、甲府市街地探索中、武田二十四将の屋敷跡に立っている説明板めぐりも、その他の史跡の観光と同時並行で行ったのであるが、それについて写真を載せると変なタイミングで挟まる形になってしまうので、後日別の記事に纏めようと思う。

 

 前日宿泊した石和温泉のホテルスパ内藤において、私はホテルのビュッフェの朝食を摂った後、朝風呂に入ってからチェックアウトを行い、自転車にまたがり、意気揚々と甲府目指して出発した。そういえば、朝食には山梨名物のほうとうがあったような記憶もあるが、私はこの日の夕飯にそれを食べようと思っていたので、ここでは食べなかったはずである。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190922200721j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232729j:plain

 昨日までの曇天から打って変わり、清々しく晴れ渡った青い空の下、私は石和を出て北上、県道6号線の筋へと入り西進した。道中の一帯には青々とした葡萄畑の棚が広がっていた。北の方、盆地の縁の山々に目を凝らすと、そこにもまた一面の拓かれた緑があった。私は初め、これを水田かと思ったのだが、よくよく目を凝らすと少し地表から離れていた、すなわち葡萄畑であったので、いよいよ甲府盆地にやってきたのだということをつくづく実感した。

 6号線は盆地の北辺の山に沿うようにして、南側の盆地部よりも少し高いところを西へと走っていた。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190922202544j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232730j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232732j:plain

 山梨学院中学校の前を通り過ぎ、小さなトンネルを抜けたところで、私は道を左へと逸れ、坂を下って盆地部へと車を進めた。目指すところは甲斐善光寺だ。遠景に見える大きな緑の屋根がそれであろうか。

 坂を下りきったところの突き当たりに、古びた石造りの鳥居と、かつて小さな社がそこにあったことを思わせる土台があった。
 その左にはこれらの由緒を伝える説明板が立っていた。ここにあった神社は玉諸神社というらしい。ポンポコ塚という古墳に関わる社であるようだが、そのポンポコ塚はこの南西の葡萄園内にあるとのことだったので、そちらの方を眺めてみた。確かに、葡萄棚の端の、木の生い茂ったところに盛り上がった土山があるのが見えたが、それがポンポコ塚であるのかどうかはよく分からなかった。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232736j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232812j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232818j:plain

 そして私は甲斐善光寺へとやって来た。善光寺といえば「牛にひかれて善光寺参り」とも言うように、長野県長野市のものが有名であるが、この甲斐善光寺は永禄元年(西暦1558年)、かの武田信玄がその本尊の阿弥陀如来像などをこの甲府の地に移してきて寺院が建立されたものなのである。『武田信玄 芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(笹本正治, 2005年11月10日, ミネルヴァ書房)の236ページには、如来像は永禄元年9月25日に甲府に到着して甲斐国中の人々を喜ばせ、同年10月3日より堂の建設が開始され、翌年完成、2月16日に入仏式が行われたが、その後も甲斐善光寺全体の工事は続き、永禄七年3月22日に棟上げが為され、翌8年3月27日に善光寺への入仏が行われたと記されている。

 武田信玄は自身の私的な信仰の他に、善光寺を配下に押さえることによって、全国的に信仰される善光寺の宗教的権威を自らの権力下に取り込み、領国支配の強化や版図拡大の正当化に利用しようと考えてこの移転を実施した(『武田信玄 芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』, p237) 。本願寺一向一揆と蜜月関係であったことといい、つくづく信玄は宗教的権威の利用が上手いと思わされる。

 私はこの寺へさしかかってすぐ、その山門の巨大さに驚かされた。空を衝くような立派な朱塗りの門構えに、丁寧に視線をめぐらせながら潜り抜け、続く参道をゆっくりと歩いていく。門の奥に立派な金堂の建物が見えた。参道の路肩には茶店が出ていたが、今日は休業日のようであった。

 一歩一歩進むにつれ、正面の金堂の立派な姿が段々と大きくなり、はっきりと目に入ってくる。中高生時代に時折訪れた鎌倉五山時宗総本山の遊行寺にも劣らない、このように大きいお堂は久しぶりに目にしたように思う。しかし甲斐の善光寺ですらこれ程までに立派なのだから、いわば本家である長野の善光寺は一体どれ程立派なのだろうかと想像すると、そちらへの憧憬の念が一気に大きくなった。やはりいつかは信州の善光寺参りもしてみたいものだ。その時は信玄の川中島や、木曽義仲の横田河原などの古戦場、そして海津城をはじめとする戦国期の城跡も一緒に訪れようと考えている。

  境内の一角の池の風景も美しく、新緑の若芽が初夏の晴空によく照り映えていた。惜しむらくは御朱印帳を自宅に忘れてきてしまったことであった。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232828j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232832j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232837j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232847j:plain

 善光寺参りを終えた私は盆地を西進し、東光寺へとやって来た。初夏の陽光に照らされた庭園の美しい寺であった。ここへ来た目的は、境内にある諏訪頼重武田義信墓所を訪れることである。本堂への参拝も早々に、私は寺の裏手の墓地へと向かった。記憶が正しければ、両名の墓は墓地の西側の方に斜めに並んで鎮座していたように思う。

 諏訪頼重は信州諏訪郡統一の立役者である諏訪頼満の孫であり、武田信玄と同時代の諏訪郡に君臨していた。彼は毎年の自然災害で領国が疲弊している中でも軍事行動を続けていたが、あまり成果が上がらなかったことで信望を失いつつあったほか、一族の高遠諏訪家の高遠頼継と、諏訪惣領職の継承を巡って対立するなど、不安定な状況にあった。甲州街道が諏訪で中山道と合流することからも分かるように、甲斐から地続きである諏訪郡がこのような状況であることに目をつけた武田信玄は、前述の高遠頼継や、他にも諏訪郡内部で勢力拡大を狙う諏訪上社の禰宜大夫矢島満清、そして諏訪頼満の時代に諏訪氏に服属した下社の金刺氏などの反頼継勢力と共同して諏訪郡に侵攻、圧倒的な兵力差でこれを併呑してしまった。信玄が父信虎を追放して家督を継いでから僅か一年余りの、天文11年(1542年)のことであった。その後領土配分を巡って信玄と対立した反頼重勢力を、信玄は頼重の遺児虎王を擁立することで権威を得て、諏訪氏遺臣の支持を集めて撃破し、諏訪郡の平定を確実なものとした上に高遠、伊那まで確保している。信玄の軍略の巧みさ、戦争目標正当化の上手さがひしひしと感じられるエピソードである。この争奪戦の舞台となった諏訪大社の上社秋宮には今年の8月に訪れているので、後々記事にしようと思う。遅筆の程お詫び申し上げたい。

 さて、武田と高遠の優勢な侵攻を前に抵抗を諦め、1542年7月1日に始まった信玄の侵攻から僅か三日ばかりの7月4日には信玄との和議に応じた諏訪頼重は武田軍に捕らえられ、翌5日に甲府へ連行され、21日に弟の大祝頼高と共に切腹に追い込まれた(『武田信玄 芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』, p31~34)。この頼重の娘で、武田信玄の側室となった諏訪御料人の息子が、かの武田勝頼である。勝頼が父から「信」の字を偏諱していないのは、彼が頼重の孫として諏訪姓を名乗り、諏訪、高遠地域の領主として信玄の領国支配の一翼を担ったからなのだ(『武田信玄 芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』, p79~80)。諏訪頼重という人は、どこまでもその地位や血統を信玄の支配に利用され尽くした人のようで、どうも哀れでならない。

 その隣にあるのが、信玄の嫡男武田義信の墓である。本来は彼が信玄の正統な後継者だったのであるが、やがて親子仲が悪化、信玄の古参の家臣である飯富虎昌と協力し、信玄への謀反を画策していたことが露見した。しかし義信は家督を継ぐ大切な嫡男であったので、信玄は永禄8年(1565年)10月15日、飯富虎昌に全ての罪を着せる形で彼を処刑した(『武田二十四将正伝』, p74)。

 だが、そんな信玄の試みも虚しく、結局義信は永禄10年(1567年)10月19日に、齢三十で自害した。この義信の造反の理由に関しては様々な説が提唱されているが、最も有力なものは対今川外交を巡る武田親子の対立である。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて、織田信長によって電撃的に今川義元が討ち取られて以降、今川家が大きく弱体化したことに接して、信玄は今川との同盟を破棄し、その領国である駿河への侵攻を開始した。これに対して義元の後継者である氏真の妹を妻に迎えていた義信は反発した。また、信玄が義元の仇である信長の養女を四男勝頼の妻に迎えようとしたことも、義信の反感を買ったのであった。こうした対立から、武田家父子の関係は悪化し、義信謀反、そして切腹という事態に陥ったわけである(『武田信玄 芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』, p82~83)。

 予定していた家督継承者であった義信を失った武田家は、諏訪・高遠の領主でしかない勝頼に家督を継がせざるを得なくなる。これによって諏訪・高遠からやってきた家臣と、元から甲府にいた家臣との間で揉め事が起きるなど、武田家にとっては散々な結果となった。歴史のifを考えることを野暮とする人もいるが、義信が無事に家督を継承していたならば、武田家の悲劇の滅亡の歴史は変わっていたのかもしれない、などとつい考えてしまうものだ。

 そのようなことに想いを巡らせながら、私は両名の墓前にしゃがみ込み、そっと手を合わせたのであった。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232852j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232858j:plain

 東光寺から坂を登って北上し、再び県道6号線上に達した私は、道路を西進してトンネルを潜り、それを抜けてすぐの道を更に北上し、山際にある大泉寺へとやって来た。林の中の閑静な寺である。
 ここには武田信虎、信玄、勝頼三代の墓所があるとのことであったので、門をくぐって本堂に参拝した後、案内板などに目を通しつつそれらを探して歩いた。目的の墓所は、記憶が正しければ本堂から左奥へ入ったところに、祠のような形で佇んでいた。祠までの道の両脇には「風林火山」の幟が立ち並び、堂々たる雰囲気を醸し出していた。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232906j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232902j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20191018110014j:plain

 また一つ門をくぐり、祠の正面へと出る。祠の賽銭箱の中央には大きく武田家の家紋が記されており、その傍らには風林火山の文字の入った軍配が添えられていた。私はここに手を合わせた後、案内表示に従って左側から祠の裏へと回り、武田三代の墓所を探した。

 祠の裏には幾許かの年季の入った石塔があったが、肝心のところなのに特に案内表示などが無く、どれが武田氏三代のものであるかは良く分からなかった。なので、不本意だが墓参りは先ほどの祠への参拝に代えることにした。信虎は分からないが、信玄、勝頼の墓は分祀されているのか他にも様々な場所にあるようなので、この場所に拘りすぎる必要もなさそうである。

 三枚目の写真の説明板は確か祠の脇の、裏の石塔があるエリアへ続く道の傍らに立てられていたと思うのだが、なんと逍遥軒信綱が描いた武田信虎の肖像が、この大泉寺に所蔵されていることについて言及していた。逍遥軒信綱とは武田信虎の三男、すなわち信玄の二つ下の弟である武田信廉の出家後の名前である。信廉は武将よりも文化人、芸術家としての才能に長けており、専らそちらの方面で有名な人物である(『武田二十四将正伝』, p143)。

 この説明板によれば、そんな信綱が亡き父を偲んで描いた絵が、この大泉寺に収められているというのであるから興奮したのであるが、あいにく一般公開はされていなかったようで、お目にかかることは出来なかった。

 なお、この説明板の隣には、信虎の墓について解説した別の案内板が並んで立っていたと記憶している。信虎は信玄により追放された後、駿河に逃れて三十三年間の余生を過ごし、最終的に天正二年、すなわち1574年、信州高遠の地で没した。亡命生活であったにも関わらず、信玄より一年も長生きしているのであるから不思議なものだ。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232922j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232926j:plain

 大泉寺を後にして更に北上し、私は河尻塚と信玄公火葬場跡が道路を挟んで立ち並ぶ場所へとやってきた。その名の通り、それぞれ河尻秀隆と武田信玄墓所なのであるが、両者の扱いのあまりにも大きな違いに私は驚かされた。

 まず最初に、私は河尻塚の方から訪れた。民家の塀と教育施設の敷地の間の、地図にも載っていない道無き道を、生い茂る初夏の雑草を踏み分けながら、Google Mapを頼りに進んで行くと、古めかしく小さな石碑が傾いてぽつんとた立ち、そこに「河尻肥後守之霊碑」と刻まれていた。

 慰霊碑の隣には説明板が立っていた。この地は河尻秀隆の首塚、または屋敷跡と伝わっている。秀隆は織田信長の家臣で、1582年の甲州征伐において軍目付として活躍し、戦後甲斐、諏訪郡の領主となったが、圧政を敷いて民衆の恨みを買い、本能寺で信長が没した後には一揆に攻められて無念の戦死を遂げた人物である。圧政の恨みから秀隆は墓穴に逆さに埋葬されたため、逆さ塚とも呼ばれているそうだ。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232935j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232938j:plain

 それに対して道路の反対側に、小さく緑地が整備され、屋根や囲いも設けられてしっかりと墓苑が整備されているのが、武田信玄の火葬場跡である。入り口には風林火山の幟がはためき、石灯籠や案内板なども複数立てられ、堂々たる装いを示していた。

 小さな門をくぐって囲いの中へと入ると、立派な石造の墓が聳え立ち、数多くの花が添えられていた。線香台に刻まれた武田家の家紋も美しい。案内板によれば、この地は江戸時代の安永8年(1779年)、時の甲府代官中井清太夫が発掘し、信玄の名の刻まれた石棺を発見したことから墓所が整備されたようだ。それ以来地元住民らによって手厚く祀られ続けているようである。

 信玄は上洛戦の最中に病気が悪化、1573年1月の三河国野田城攻略を最後に長篠城に引き上げ、それでも病状が快復しないので止むを得ず撤兵して甲斐へ帰国することになったが、その途上の4月12日に信州伊那郡の駒場で死没した(『武田信玄 芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』, p107)。その後、遺体は甲府へと搬送され、この地で火葬に附されたようである。

 

 それにしても河尻秀隆と武田信玄、この並んだ二つの墓を見比べると、戦国時代から維持されてきた山梨県民の郷土愛と歴史観が見えてくるかのように思える。いびつで小さな傾いた石碑がぽつんと、民家の塀に囲まれて道路からは見えない場所に立っており、お供え物の一つもない河尻塚と、立派に墓苑として整備されており、参拝者を出迎えるように幟まで掲げられ、真新しい花が備えられている信玄公火葬場跡。後者にだけ信玄「公」と敬称が付けられていることを鑑みても、山梨県民が抱く、地元の英雄である信玄に対する敬慕の心と、武田の名門を滅ぼし甲斐民衆を苦しめた宿敵織田の手先、河尻への嫌悪とがありありと浮かび上がってくるようだ。

 面白い対比を見ることが出来た、と思いながら、私は信玄公墓所の入り口で少し休憩した後、また少し北へと向かった。そういえばこの休憩中、二台の車に分乗した老人たちの集団が、信玄公墓所の前へとやって来ていた。歴史好きにとってはそれなりに見所となっている観光スポットなのかもしれない。

 余談だが、『武田信玄 芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』の109ページによれば、甲州市にある恵林寺の境内にも信玄公を祀った墓所があるらしい。そちらにもいつかは訪れてみたいものである。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232942j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232949j:plain

 信玄公火葬場の北を東西に走る愛宕山スカイラインの沿道北側には、「信玄堀」なるため池があった。岩窪というこの周辺の地域の灌漑のために作られた溜池のようで、名前に信玄と付いてはいるが、実際の造築は江戸時代と推定されているらしい。なお、2019年10月22日時点ではGoogle Mapに「信玄池」として登録されていたため、調べられる方はご注意されたい。

 道沿いの土手の上に池があったのだが、特に登り口などは無く、名前のインパクトに反して観光地ではないようであった。他の方向も建物の敷地に囲まれており、近づくのは難しそうである。やむなく私は土手の急斜面を登り、生い茂る背の高い雑草の間から池を覗き込んだ。土色に濁った水の、特に変哲も無いため池であった。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731232953j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233007j:plain

 このため池のすぐ西隣にあるのが、山梨県護国神社である。護国神社とは、各都道府県の出身、または所縁のある戦死者などを祀った神社だ。私が護国神社を訪れるのは、宮城県のそれに続いて二社目であった。

 晴朗なる初夏の青空に聳え立つ真っ白な大鳥居が美しく、また本殿へ向かって伸びる階段や石畳も小綺麗で、閑静な御社であった。本殿前の広場の向かって右側などには数多くの石碑があり、それぞれについて写真と説明を掲載していると長くなってしまうので、いずれまた別の記事に纏めようと思う。

 この土地に生い立ち、尊い命を祖国のために燃やした過去先人に敬意を払いつつ、本殿に礼拝を済ませ、私は護国神社を後にした。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233050j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233100j:plain

 西北方向へ進み、私は武田神社へとやってきた。ここはかつての武田信玄の居館、躑躅ヶ崎館の跡地に建てられた神社であり、水堀に囲まれた神社に隣接する土地には当時の遺構も多数見つかり、保存されている。

 ここの参拝についても、書き記していくと城郭遺構の紹介や神社の施設の紹介などで長くなってしまうため、別の記事で纏めようと思う。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233044j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233047j:plain

 私は武田神社に参拝する前に、その東側にある武田氏館跡大手門東史跡公園に隣接する、「陣」という喫茶店に入り、昼食を摂ることにした。腹が減ってはいるが、炎天下であるため体がへばっており、とても多くの飯を掻き込める体の状況では無かったので、軽めに食べようと思っていた矢先に、丁度いい店を見つけたので運が良かった。

 店のメニューにはパスタなどがあった記憶があるが、私はチーズトーストを注文することにした。価格は確か600円ほどであっただろうか。非常に肉厚なパンの甘みに、チーズの塩気がほんのりと効いていてとても味が良い。更にセットでついてきたサラダもドレッシングの味付けがよく、生トマトが大の苦手な私でも完食することが出来た。

f:id:arima_jiro_takeichi:20191101111253j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20191101111240j:plain

  その後武田神社に参拝し終えた私は、北へと転針、一路扇状地の扇頂を目指して自転車を走らせた。延々と続く緩やかな上り坂に息も絶え絶えであったが、広がる田畑と青い山々を望む雄大な風景は、胸の奥に染み渡るような美しさであった。

 私が目指したのは、甲府扇状地の扇頂に位置する要衝、要害山城の跡地と、その麓の武田信玄公誕生の地、積翠寺である。これらについてこの記事の中で記述すると長くなってしまうので、これもやはり独立した別の記事を後に執筆しようと思う。 

 

 最後に訪れたのが、これまでの戦国時代のオンパレードからはがらりと変わって近代の史跡、旧帝国陸軍甲府歩兵第四十九連隊の遺構である。

 歩兵第四十九聯隊は甲府を編成地として、日露戦争も終盤に差し掛かった明治38年(1905年)3月31日に結成された伝統ある部隊である。同年7月には南樺太侵攻作戦に参加して初陣を飾り、この時のことは連隊歌にも歌われた。戦後歩一、三、五十七聯隊とともに第一師団に組み込まれた後は、第一次世界大戦期の青島の占領地警備、二・二六事件の鎮圧などに出動した。昭和11年(1936年)、満州の北安に駐屯し、匪賊討伐や対ソ紛争に活躍した後、昭和19年(1944年)2月に第三大隊が南方へ転出、続いて7月に全聯隊が転出した。第三大隊はグアム島マンガン山、その他の聯隊主力はレイテ島のリモ峠などで優勢なる米軍と激戦を繰り広げるもほぼ全滅しており、最終的に前者は戦後にジャングルに潜んでいた約1割、後者はセブ島に脱出したうちの九十人余が救出されたのみであった(『わが聯隊』, p128, 280 )。捕虜となった兵や、レイテ島に残って救出された兵もいたかもしれないが、それらを数えたとしてもごく僅かと思われる。

 私はせっかく甲府を訪れたので、地元のこの伝統と悲劇の聯隊の遺構に目を向けてみることにし、かつての兵営の地を訪れたのであった。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233544j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233543j:plain
f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233540j:plain

 まず、私は山梨大学附属小中学校の敷地の東端にある「山梨大学赤レンガ館」を訪れた。1909年に建てられたこの建物は、かつて聯隊の糧秣庫であったが、戦後に山梨大学附属中学の校舎の一部として使われ続けたことで、現在まで保存されるに至った。

 中は資料館になっているようであったが、訪れた18時45分ごろにはもう閉まっていたようで、入ることができなかった。この建物は校門の中にあり、出る時に気付いたのだが、校門には「関係者以外立ち入り禁止」といった趣旨の警告が書かれていた。しかし赤レンガ館の写真を撮っていた時に、退勤する教員らと思しき集団に遭遇したものの、特に注意されることは無かったので、どうやら史跡目当ての来訪者も関係者として見なしていただけたようであった。なお、今後私の体験を読んで勝手に侵入して罰された方がいたとしても責任は取りかねる事をご理解いただきたい。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233546j:plain

 そこから南西方向にある山梨県福祉プラザの、駐車場を囲うツツジの植え込みの中の、北新駐在所前交差点に面した一角に、「営門跡」の石碑が立っている。この石碑に記される通り、この北新駐在所の曲がり角がかつての四十九聯隊兵営の営門であり、ここから北東方向へ伸びる道の左右にある小中学校の校庭がかつての営庭であった。入って右手、東側に衛兵所、厩、聯隊本部、医務室、少し離れて機関銃隊兵舎などがあり、北側には各大隊の兵舎があった(『わが聯隊』, p126)が、現在も残っているのは先ほどの赤レンガ館だけのようである。『わが聯隊』の126ページの、当時の兵舎を写した写真のキャプションには、現在兵舎の建物が山梨大学学生寮として残っていると書かれているが、ネット上にそれと思しき情報はなく、また兵営周辺にも現在学生寮はないため、この本が昭和53年初版であることを考えると、もう既に取り壊されてしまったのであろう。 

 現在は住宅地に飲み込まれたこの一帯であるが、かつては兵営の周りは一面水田であり、また西を流れる相川を挟んで広大な練兵場が広がっていた(『わが聯隊』, p126)。人家が所狭しと立ち並んだ現在の光景からは全く想像のつかない事実である。

 余談だが、この石碑を訪れた時、石碑の前で小学生と思しき男児二人が喧嘩し、それを女児一人が困った様子で止めようとしていた。そんな中、私が颯爽と現れて石碑の写真を撮影した時、児童たちは驚いて一瞬喧嘩を止めたのであるが、すぐにまた再開してしまった。喧嘩自体は旅人の「あっしには関係のないこと」だが、石碑の写真を撮る行為が、一瞬空気を凍らせるようなことだと認識されているという事実は、どうも歴史オタクの置かれている立場を表しているようで物悲しい。

f:id:arima_jiro_takeichi:20190731233555j:plain さておき、六月の長い陽もさすがに暮れてきたので、私は最後に地元名物のほうとうを嗜み、中央線で甲府の街を後にすることにした。私は駅前の「小作」という店に入り、ほうとうを注文した。確か豚肉の入ったもので、値段は1000円ほどであったと思う。暖かく、ボリュームたっぷりで腹によく溜まるおいしさであった。

 

 こうして郷土の味を楽しんだ後、私は甲府駅から中央線に乗り、楽しかった山梨県を後にした。甲府城をはじめとする甲府市内南部の史跡や甲府駅南口の武田信玄像、そして甲府市外だと武田家滅亡の地である田野や、大月〜甲府間の甲州街道など、まだ見られていない地点は沢山あるので、是非とも再びこの地を訪れたいものである。

 

甲州街道自転車紀行

一日目はこちら

二日目はこちら

 

参考文献

武田信玄 芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(笹本正治, 2005年11月10日第5版, ミネルヴァ書房)

『新編 武田二十四将 正伝』(平山優, 2017年8月12日初版第二刷, 武田神社)

『わが聯隊』(山本一哉, 1979年6月15日, ノーベル書房)

現地の案内板