仕方アルマジロ

大学生活の記録

『進軍中国大陸三千キロ』所感

 先日、『進軍中国大陸三千キロ』(岡野篤夫, 2000年2月29日, 旺史社)を読了したので、その所感をここに書き記しておこうと思う。

  この著作は大隊付の主計将校として帝国陸軍第二十七師団に所属し、大陸打通作戦から三南、江西作戦などに終戦まで参加した筆者によるものであり、主計将校という立場であるが故の様々な興味深い記述が掲載されている。記述から推測するに、筆者が入隊したのは部隊が錦西に駐屯していたのよりも以前であり、武漢作戦よりも後である。

 

 第二十七師団といえば確か、義和団事件後の北京議定書以降、領事館保護のために北京、天津地域に駐屯することになった支那駐屯軍に所属していた部隊である。作中ではこの師団が盧溝橋事件で最初に中国軍と戦火を交えた部隊であったが故に、敵から集中攻撃を受けたということが記されており、興味深いと同時に、敵の部隊名がどうして分かるのかという疑問が浮かんだ。土民に紛れ込ませたスパイや、無線の傍受によって情報戦を行っていたのであろうか。

 さておき、この第二十七師団は大陸打通作戦において、まず前段作戦の京漢作戦では大黄河を渡河後、洛陽攻略には参加せず、更に南進して中支の日本軍と合流し、京漢線の鉄路を打通した。続いて休む間も無く後段の湘桂作戦に参加させられ、粤漢線やその周辺都市に沿って来陽まで南下した。その後米軍飛行場撃破を目標とした遂贛作戦、三南作戦に参加し、最後は江西作戦の最中に終戦を迎えた。

 第二十七師団は1944年4月の大陸打通作戦開始からここまで、ほぼ休みなしで動き続けてきた、苦労の師団なのであるが、それはすなわち、日本軍にそれほど予備兵力が足りていなかったことを物語っているのではないだろうか。

 そういえば、この著作の中でところどころ、恐らく情報伝達の行き違いによるものと思われる、防衛省の公刊戦史と戦友会の記録との相違が指摘されているのが興味深かった。必ずしも公刊戦史───おそらく戦史叢書のことであろう───を信用してはならない部分があるようだ。とはいえ、毎回各部隊の戦友会の資料に当たって整合性を調べるというのも、その入手難易度や作業量を踏まえれば非常に困難な事である。

 余談だが、部隊が湘桂作戦の戦場に向かう時、かつて武漢作戦において進撃した土地を再び踏んだというのが感動的であった。筆者も記す通り、古参の将兵たちの感慨の大きさが想像できるものである。

 

 前書きに於ける自己紹介によれば、筆者は32歳にして初めて補充の主計将校として召集されたということであり、それゆえか、筆者が自称する通り、将校らしからぬ兵隊目線に近い考え方も垣間見える。これが若手の少尉であったならば、もっと軍紀に忠実な職業軍人相応の振る舞いをしていたのであろうが、この筆者の場合は決してそういう訳ではなかった。

 この大陸打通作戦において、日本軍は食料をほぼ現地調達に頼ったのであるが、筆者が主計将校であるが故に、その事実が一層強調されているのが興味深かった。戦闘、作戦行動の描写と同等かそれ以上に、輜重に関わる作業や、現地住民からの食料、家畜などの徴発、そして戦火から逃げ出し無人になった部落からの食料奪取などの風景が多量に、そして詳細に描写されていた。それはすなわち、日本軍の兵站軽視の表れである。これが中国大陸の大穀倉地帯であったから、ある程度は上手く行ったものの、同じことを人口希薄地帯で行ったニューギニア戦線で何が起きたかについては、再三このブログで以前にも言及したはずである。

 

 他にこの著作で強調されていたのは、中国軍が米軍の強力な支援を得ていたということである。在中国の米軍航空隊は、日米開戦前の義勇兵であるフライングタイガース飛行隊に始まり、終戦まで日本軍の目の上のたん瘤となっており、戦争後半には米軍の航空基地破壊が主要な作戦目標にまでなっている。この空襲のせいで大陸打通作戦中の行軍も殆どが夜間に行われるものとなった。

 それに加え、援蒋ルートを通じた米英の対中支援は常に日本軍を悩ませ続け、この援蒋ルート遮断が対英米開戦と南方作戦を引き起こすまでになった。以前の記事で所感を述べた『戦跡に祈る』の中でも、雲南戦線に登場したこのような米軍装備の中国軍で、この雲南の場合には更に米軍の士官による作戦指導をも受けている部隊を「米支軍」と形容している。このように、大戦後期の中国軍を知る者の多くは、米軍の関与を強く印象に持っているようである。

 そのような経緯からか、筆者は自分の体験記に入る前の、本の冒頭の歴史背景解説の部分で、日中戦争を米国が中国を使って行った代理戦争として位置付けていた。実際、米国の目的は中国大陸における自国の権益を日本の独占から守ることであり、決して日本帝国主義を打倒する正義の戦争とは、心の底では思っていなかったであろうから、日中戦争を単なる日本帝国主義のみならず、日米の帝国主義の衝突という「代理戦争」として理解する史観には一定以上の説得力があるように思える。

 

 その他に、この作品内でなされていた、前線で歌われた軍歌に関する言及も面白かった。京漢作戦中の行軍の場面では、「日本陸軍」「露営の歌」「歩兵の歌」「愛馬進軍歌」「北支派遣軍の歌」「師団歌」「聯隊歌」「皇軍の歌」などが歌われていた。最初の五曲のほか、第二十七師団の師団歌はインターネット上で聞くことができるために知っていたのだが、最後の二曲については存じていなかった。

 筆者の所属していた支那駐屯歩兵第一聯隊の聯隊歌は、第二十七師団麾下の他の二つの支那駐屯聯隊同様、ネット上では音源を確認することが出来なかった。このような部隊歌はなかなか残存しているものが少なく、非常に貴重である。戦友会の刊行した書物などを漁って歌詞だけでも発掘したいものだ。

 「皇軍の歌」については、「旭日煌々太平洋に......」で始まる歌詞のものが、『あの夢この歌 日本の軍歌』(宮川隆子, 1968年?,  有限会社東京楽譜出版社)、『帝國軍歌』(寺敷憲, 1937年11月20日, 元文社書店)などで確認できたほか、その音源をインターネット上で見つけることが出来たので、恐らくそれであろう。ただし、インターネット上には「暗雲低き北支那や......」で始まる、昭和十三年製と書かれた同名の歌の音源が見られたので、そちらの可能性もある。

 このようなマイナーな軍歌の音源や歌詞の資料は、時代が流れて消滅してしまう前に、国が芸術作品として保護に力を入れて欲しいものである。

 遂贛作戦の描写においては、盛り上がった宴席などにおいて歌う歌として、歌謡曲「椰子の実」が挙げられていた。また、作戦中に新しく入ってきた補充兵に教えられた歌として、「ラバウル小唄」や「湖南進軍譜」が挙げられていた。後者は初耳の曲であり、インターネット上で音源を見つけることが出来たのだが、歌詞について少し気になるところがあったので、後日記事にしようと思う。

 「ラバウル小唄」は非常に有名な曲であり、原曲は確か「南洋航路」という戦争初期の歌謡曲であったので、ここまでに筆者に認知されていなかったのが意外であったが、どうやら「ラバウル小唄」として兵隊たちの間に広まったのは戦争末期であるようだ。軍歌に関する資料はどうも見つけることが難しく、どうしてもWikipedia頼りになってしまうのがもどかしい。Wikipediaの参考文献などを元に辿ってみれば良いのだろうか。

 また、どのあたりの場面で出てくるものであったかは失念してしまったが、戦友軍歌「大黄河」を歌っている描写もあった。このような兵隊たちの間での流行歌の情報は、軍歌オタクを自称する私にとっては非常にありがたいものである。

 

 本の最後は終戦までで終わっており、引き上げの経緯については省かれているのが残念であった。孤児になっていたところを日本軍に拾われて従軍し、日本兵たちと仲睦まじくなっていた中国人苦力の少年たちが、日本へ行きたがっていたにも関わらず、最後は遠く離れた故郷へ帰らされてしまうのが物悲しかった。彼らは漢奸として不遇な一生を送ることになってしまったのであろうかと考えると、あまりにも可哀想でならない。

 

 上記のように様々な興味深い知識を得ることができたこの著作であったが、この記述の中に登場した戦場や駐屯地などの地名を、実際に中国へ渡航して辿り、日中の将兵への慰霊の思いを馳せてみたいものだと思った。日本軍駐屯部隊と仲良くした住民たちのいた都市名も挙げられていたので、そのような土地をゆっくり見て、かつての駐屯日本軍の面影を偲んでみたくもある。

 とりあえず、まずは近場の、作中で言及されていた、埼玉県鴻巣市にあるらしい「あゆみ観音」という、この部隊───第二十七師団か支那駐屯歩兵第一聯隊であろう───の戦友会の慰霊碑を訪れるところから始めようと思う。