仕方アルマジロ

大学生活の記録

『中国慰霊』所感

 先日、神保町の古書市で手に入れた『中国慰霊』(読売新聞大阪社会部, 1985年8月10日, 角川文庫)を読了したので、ここに所感を述べておこうと思う。

 この書籍は以前の記事で所感を述べた『進軍中国大陸三千キロ』と同じく、大陸打通作戦を扱った戦争体験記である。しかし、両者を読んで受けた印象には大きな違いがあった。その違いを中心軸に据えて、これから感想を論じていこうと思う。

 

 まず、前回読んだ『進軍中国大陸三千キロ』は、以前の記事で述べた通り、歴戦の精鋭師団である第二十七師団(極)を扱ったものであった。この師団は装備も比較的充実しており、大隊砲、聯隊砲といった支援火力も頼もしいものであった。

 それに対して、今作で中心的に扱われたのは、ほぼ歩兵火力のみで構成された第六十八師団(檜)であったのだ。故に戦闘は劣勢な装備によって行われる悲惨なものばかりとなっていた。しかも兵たちは補充兵ばかりで、漂う悲壮感も一層のものであった。

 その上、特に湘桂作戦においては両者が担う任務も異なっていた。極が第二線に配置され、味方の進撃後の地域に残存している敵兵力の掃討・追撃や、敵の逆襲への対抗などを担っており、野戦が多めであったのに対して、檜は要衝の都市である衡陽の攻略の最前線に立たされ、敵の堅固な防御に対して絶望的な攻撃を強いられたのである。両者の装備を踏まえると、どう考えても砲兵を持った極を都市の防御陣地攻略、持たない檜を第二線に配置した方がいいのではないかと思ったが、ざっとインターネット上で検索して調べたところによると、どうやら日本軍は都市攻略よりも敵の野戦軍の撃破に重きをおいており、衡陽には最低限の二個師団しか割かなかったようであるらしい。確かに支那事変から続く日中戦争のここまでの経緯を見ていると、 都市や交通の確保よりも野戦軍の撃滅こそが重要であることは理解できるが、それでも衡陽攻略の描写のあまりの悲惨さを読んでいると、『203高地』の映画を見た時のような、言い知れぬ悔しさと憤りを感じさせられる。

 

 そしてこの著作において最も心を打ったのが、野戦病院で働いていた衛生兵の証言であった。物資の欠乏する中で多くの負傷兵が担ぎ込まれ、薬もなく何の治療もできないどころか、食べ物すら与えることができず、多くが栄養失調で死んでいく。そんな中で伝染病が蔓延し、死体の山が築かれ、衛生兵たちの心も半ば狂っていくという、まさにこの世の地獄のような描写であった。

 病院では食べ物が殆ど得られないからと、片腕を失っているにも関わらず、住民からの現地徴発で少しは食うことの出来る前線の原隊へと復帰しようと試み、病院を脱走した兵隊もいたという。

 全ての元凶は、補給をろくに与えずに人命軽視の作戦を結構した軍なのではないか。仮に日本が自国の国力をわきまえ、補給を維持できるだけの戦線拡大しかしなかったならば、このように現地の住民が食料を取られて飢え、取った兵隊たちもそれだけでは食えずにまた飢えて死ぬというような悲劇は起きなかったであろう。

 無論、はじめから無謀な戦争だったのだと言われればそれまでなのであるが、それならばもっと早期の講和の手段を探ることも出来たのではないかと考えてしまう。

 

 話は変わるが、この慰霊団が訪れた当時、昭和末期の中国(この当時の中国で日本人の慰霊行為は禁止されていたのであるが、ガイドは黙認していたようである)には、未だに戦争当時の地形がかなり残されていたようである。改革開放から始まる経済発展を経て、城市を囲む古い城壁は開発の邪魔であるとして多くが破壊され、農村部からの流入で都市人口が増加、郊外まで都市圏が拡大し、多くの新道や新鉄道が通った現代の中国では、このように往時を偲べるほどの地形は残っていないのではないかと思った。これは他の史跡や、伝統的な風景そのものについても言えることであり、別に中国に限った話ではないのだが、考えてみると少し残念なことである。

 

 余談だが、こちらの本でも前回読んだ本と同様、兵隊たちの間の流行歌として『椰子の実』に言及されていたのが興味深かった。当然のことではあるが、流行歌というのは部隊の区分を超えて同時多発的に起こるものなのだということを確認できた。