仕方アルマジロ

大学生活の記録

南信州限界旅行記 1日目 塩尻峠を越えて

 2019年8月9日、特急あずさに揺られて幾時間が経ったであろうか。私は二ヶ月前の自転車旅行で辿った思い出懐かしい甲州の地を過ぎて、いつしかまだ見ぬ信州の地へと足を踏み入れていた。これが私の人生で初めての長野県入りである。

 今回辿るのは諏訪から木曽へ至る中山道の道筋である。旅の準備として『読み直す日本史 木曽義仲』(下出積與, 吉川弘文館, 2016年11月1日)を読み、旅行先の歴史についての理解は深めていた。三波春夫氏の歌謡浪曲木曽義仲一代記』に心を動かされたり、母校の近くにあった息子の義高の墓を訪れたりしていたので、個人的に木曽義仲公に思い入れが深かったほか、侠客仲乗り新三を歌った橋幸夫氏の『木曽ぶし三度笠』が大好きであったのも、この旅路を選んだ理由の一つである。他にも前々から武田信玄に関する勉強もある程度進めていたため、その信州進出の舞台も同時に見ていくつもりであった。

 とにかく、行き当たりばったりで、信州南部において、体力の限界が来るまで(結果的に三泊四日間)過ごした旅であったので、これを記事タイトルの通り「限界旅行」と名付けることにした。

 

2日目(塩尻木曽平沢)の記事:こちら

 

 上諏訪駅に降り立ち、夏の澄んだ青空の眩さを目にした私の胸には、待ちに待った旅がいよいよ始まりを告げたことの実感が込み上がり、無性に爽やかな気分に包まれた。そこから中央線の普通列車に乗り換えて一駅、やって来たのが下諏訪、すなわち甲州街道中山道に合流する終着点である。

 後にこの旅の話を祖父にした際に聞いたのだが、祖父が20代と若かりし頃、仕事で初めて工事の監督を務めたのが、この上諏訪から下諏訪に至るまでの道路であったという。今は住宅地のひしめくこの諏訪湖岸も、かつては宿場町周辺を除いてはほぼ原野や田畑であり、故に諏訪湖流入する生活排水の量も少なかったため、湖面はアオコも無く、今よりももっと澄み渡っていたそうだ。諏訪の旅路の風景を思い返しながら、祖父の話す情景を私は脳裏に映し出し、当時の様子を一目見てみたいものだ、と、今や決して叶うことのない憧れを抱いているのである。

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下諏訪宿

 下諏訪駅の出口で折りたたみ自転車を展げた私は、駅の北側を東西に走る大社通りを東進し、名高き諏訪大社の下社秋宮へと向かった。初っ端から急な坂が私に試練を与えて来たが、これをなんとか乗り越え、秋宮の前へとやって来た。どうやらこの道も既に中山道の一部であるようなので、なかなかに気分も上がってくる。

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 下社秋宮は森の中に鎮座し、神秘的な雰囲気を携える。力量が足りず稚拙な表現しかできないのが癪であるが、日本中にある諏訪神社の総本山というほかない。私は入り口の南側にあった駐車場の一角に自転車を止め、再び正面の鳥居のところへと戻って一礼し、境内へと足を踏み入れた。

 境内は本殿(上写真左下)の前に見事な神楽殿(右下)が構え、どちらも立派な造りを見せている。その手前には神木やお湯の出る手水舎などもあった。私は参拝を終えた後、御朱印をいただいてから駐車場へ戻ったのであるが、ふと行きに駐車場へ入る途中で、奥に霞ヶ城なる城の跡があることを示す看板が立っているのを見つけたことを思い出した。

 そこで案内に従い、駐車場からさらに南へ、道路にかかった橋を渡って進んで行くと、諏訪湖を見下ろす高台の、開けた砂利敷の空き地に出た。

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 橋を渡ってすぐの所にある案内板によれば、ここはかつて霞ヶ城という城のあった場所であるという。霞ヶ城は又の名を手塚城と言った。

 手塚とは木曽義仲の家臣で、この城の主であった手塚別当金刺光盛のことであるようだ。光盛は倶利伽羅峠の大捷の後、敗退した平家軍が南加賀に敷いた防衛線に、追撃する義仲軍がぶつかった篠原の合戦において、平家軍が総崩れする中でただ一騎踏みとどまって抗戦した敵将、斎藤別当実盛を討ち取った(『読み直す日本史 木曽義仲』, pp.89-95)。

 この実盛は、幼き日、父である源義賢がその甥の悪源太に討たれ、孤児となった義仲を引き取り、木曽の豪族中原兼遠に預けた恩人であった。義仲軍がそんな恩人を手にかけざるを得なかったことは、まさしく乱世の非情な運命である(『読み直す日本史 木曽義仲』, pp.9, 14-16)。

 そしてこの広場の中央付近にぽつんと茂った木立の中に、一つひっそりと佇む像があった。馬上に弓引くこの勇壮な姿の銅像の人物は、城主光盛の兄、金刺盛澄である。盛澄は諏訪明神下社の大祝(おおほうり)という役職の人であり、弓と馬の名手であった。義仲の上洛の際は弟の光盛と同様にその軍勢に加わったが、盛澄は諏訪明神御射山社の例大祭に参加するために途中で帰国している。

 義仲の死後、盛澄が源頼朝によって鎌倉へ召された際、京の城南寺の流鏑馬に参加していたことが理由で遅参してしまったのであるが、盛澄は頼朝にこのことを責められ、処刑されることとなった。しかし処刑を命じられた梶原景時は、弓と馬に関しての稀代の才能の持ち主である盛澄を殺すことを惜しみ、最期に頼朝の眼前で盛澄に流鏑馬を行わせることを計らった。その時に盛澄は頼朝が用意させた鎌倉一の暴れ馬を乗りこなし、小さな土器の的を一つも外さずに射抜いたことで、頼朝に神の御技と感動され、遅参の罪を許されて諏訪へ帰ることが出来、その後御家人になったのであった(出典:銅像の碑文)。

 真夏の木漏れ日を見に浴びて、大社を見据え今も佇む盛澄の姿を見納めながら、私は再び車に跨って大社を後にした。中山道へと走りだす前に、少し下諏訪宿の観光をしていこうと思い、大社の目の前にある往時の宿場町の跡へと向かった。

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 まず、諏訪大社下社秋宮の目の前の、国道142号線が湾曲している部分へと出てみた。すると、「歴史のこみち」なる看板があり、宿場風情を感じさせる小径が、奥の建物の方へと続いていたので、ひとまず車を下り、そこへ入ってみることにした。

 門をくぐると、そこには江戸時代の町家をそのまま残したかのような風情の建物があり、道はその中庭に繋がっていた。この建物は宿場街道資料館という、その名の通りの資料館であり、入館料は無料であった。私は小さくも美しいこの庭園を抜け、資料館の中へと足を踏み入れた。

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 資料館は二階建てで、内装もしっかりと当時のものが再現されていた。受付の人に声をかけたところ、靴を脱いで上がって自由に中を回って良いとのことであったので、お邪魔させていただいた。

 内部の展示は当時使用されていた宿場の食器、衣類、立て札、灯り、家具などといった多彩な日用品のほか、当時の街道を描いた浮世絵、および文書資料など、様々な興味深いものが並んでいた。

 特に私が興味を掻き立てられたのは、当時の文書資料から再現した、宿場の食事の献立の写真や、資料から読み解いた江戸時代のホテルビジネス(例えば講への加盟やガイドブックへの掲載など)の解説、そして戊辰戦争時に付近の和田嶺で発生した戦闘の際に使用された小銃弾の展示などであった。是非現地を訪れて見ていただきたいものである。

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 資料館を後にして、先ほど歩いてきた歴史のこみちを戻り、再び自転車に跨った私は、142号線を僅かに北上し、甲州街道中山道の合流する地点までやってきた。

 合流地点一帯の区画は駐車場となっており、道路に面したところに下諏訪宿周辺の案内地図と並んで、そこが街道分岐点であることを示す石碑が立っていた(下の写真左上)。

 駐車場を奥へ進むと、江戸時代にあった「綿の湯」という温泉の跡地を示す石碑があり(右上)、横の壁面には綿の湯を描いたと思われる浮世絵が大きく飾られていた。石碑の横のパイプからは、今も熱い温泉水がこんこんと湧き出していた。この綿の湯については、先ほどの宿場街道資料館の中に説明板と、建物の復元模型が展示されていた(左下)。

 そこから142号線を北へ進むと、そこは既に中山道を江戸方面へ向かう道である。先ほどの駐車場と同じブロックの端に、かつての本陣の跡の立派な門構えがあった(右下)。案内板によれば、文久元年(1861年)の和宮の御降嫁の際の宿泊所、そして明治13年6月24日には明治天皇行幸の際の休憩所になった、由緒ある宿であったようだ。現在は史跡として開放されているようであったのだが、先を急いでいたので、見学は次にゆっくり諏訪を訪れた際に回すこととして、ここで踵を返し、今度は中山道を京方面へと向かって進み始めた。

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 中山道甲州街道の合流地点から伸びる、142号線ではない道へと入ると、そこが旧中山道を京方面へと向かう道である。どうやらここがかつての下諏訪宿の中心街であるようで、沿道には老舗と思しき、古風な外観の旅館が立ち並んでいた(下写真左)。一角には先ほど裏から訪れた宿場街道資料館もあった。どうやらこちらが正面玄関のようである。

 道の出口、再び142号線に合流するところには、車道をまたいでゲートが設置されており、提灯が吊るされているのが風情を醸し出していた(右)。向かって左手側の角には高札場の跡があったようなのであるが、うっかり写真を撮り忘れてしまった。

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 そのまま先ほど諏訪神社に向かって来た道を戻り、142号線を直進すると、間も無く道は20号線へと変わる。その先のY字路を左へ逸れ、旧中山道に入ると、直ぐのところに魁塚という場所がある。

 これは明治維新において官軍を指揮して戦い、勝利した暁には年貢を半減させると約束しながら東へ進軍し、民心の把握を目指した相楽総三という人物と、その7人の同志の墓である。彼は年貢を減らしたくない新政府によって裏切られ、1868年3月3日、偽官軍の汚名を着せられてこの地で処刑された、悲劇の人物なのであった(出典:現地の案内板, 青字は脳内)。

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 私は塚の前に跪いて手を合わせ、相楽総三の無念に暫し想いを馳せた後、再び車を西へと走らせた。途中、砥川を渡るところで旧中山道は尽きるため、一度20号線に戻ってそこから橋を渡り、すぐに再び左へ逸れて旧道へと戻る。

 途中、長地中町交差点で、道は下諏訪辰野線と交差する。ここがかつては伊那方面へ向かう街道との分岐点であったようで、「右 中仙道 左 いなみち」と刻まれた石碑(下の写真左)が一角に立っていた。「勘太郎月夜歌」のメロディーに思いを馳せ、いつかは天竜川に沿って伊那の方へも旅してみたいものだと思いながら、私は交差点を通り過ぎた。

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 そこからさらに進むと、旧道は出早口交差点で20号線を跨ぎ、北西方向へ逸れ、初日の最難関である塩尻峠へと向かう。この交差点に東堀の一里塚の跡があったのだが、道の確認に夢中でまたも訪れ忘れてしまっていたのが心残りである。

 この日は先ほどから雨がぱらついており、不安定な天気であったのだが、少し雨脚が止まったと思ったら、不意に激しい夕立に襲われたので、横河川に架かる橋の袂の木陰に車を止め、しばしの雨宿りをした。荷物や車、衣服を濡らされた上、雨宿りを始めて直ぐに雨が止んだので、なかなかに腹立たしい夕立であったが、雨の上がった後の東の空を見返ると、本当に鮮やかで美しい虹が架かっていたので、全てを許せるような気分になり、気合を入れ直して更に先へと進んだ。虹は写真では見ても分かりづらいし、美しさも感動もないのだが、上の二枚のうちの右側に写っている。

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 峠の麓までやってくると、そこには旧今井村の御小休本陣があった(上写真左)。往来の激しい街道の、難所である峠の麓であるから、土地柄上当然休む場所を求める人が多く集まったのだと思われる。案内板によれば、ここにも先ほどの下諏訪の本陣と同様、文久元年11月5日に御降嫁する和宮が、明治13年6月24日には行幸中の明治天皇が宿泊されたそうである。

 これより先の道はいよいよ山へと入っていき、傾斜もきつくなってくる。道端に数多くの「旧中山道」の大小の石碑や標識を見ながら、高速道路の岡谷IC一帯を見下ろす高台を、段々と人家が少なくなる中で進んでいく。これからこの高速道路がトンネルに入ってしまう山の上を越えていくのである。

 ここまで来て、これから峠であるというのに、手持ちの水の残りが心もとなくなって来た。500ml前後のペットボトルを使い、ところどころで水道水を補給しながら来たのであるが、確か最後に汲んだのが下諏訪のどこかであっただろうか。どこかに補給できる場所がないかとあたりを見回しながら進むも、見つからずに峠に差し掛かり、このまま進むべきかと難渋していると、ここに救いの神、もとい観音が舞い降りた。路肩の「石船観音」の横の斜面から、清い湧き水がこんこんと流れ出ていたのである(下写真左)。

 かつての旅人もこのように期せずして観音さまの恩恵に預かったのであろうか、などと想像を巡らせながら、私は生まれてから飲んだ中で最も甘露なこの湧き水を何杯も何杯も飲み干し、ボトルいっぱいに汲み取った。もしかしたら水が湧き出ているからこそ、ここに街道を通し、観音を立てたのかも分からない。ともかく、私は観音さまにそっと片手拝みで一礼し、再び道を急いだのであった。

 山道の勾配は更に急になり、木が茂って薄暗くなる。車通りは殆ど無く、結局最後まで二、三台しかすれ違うことは無かったし、歩行者に至っては終始一人も出会うことが無かった。道中、路肩の左手には、「塩尻峠の大岩」なるものが転がっていた(下写真右)。案内板によれば、どうやらかつての江戸時代には、この岩に身を隠して盗賊が旅人を待ち伏せているようなことがあったらしい。その事情を事前にネットで知り得ていた私は、一応警戒しながら近寄ったのではあるが、当然周りには人っ子一人居なかった。ここが表街道であった江戸時代ならばいざ知らず、裏街道に落ちぶれ、殆ど人通りのなくなった現代では、生い茂った木に囲まれ、草むしたこんな岩の陰でいくら待ったところで、目ぼしい通行人は現れず、盗賊も退屈で眠りこけてしまうのが関の山であろう。

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 そこから先の左右の風景は樹林へと変わって段々と閉ざされていき、勾配は更に急になって自転車は押して歩くようにまでなった。息を切らしながら重い車を押して進んでいくと、暫くして辺りの風景は開けた。漸く峠の頂上へと出たのである。舗装路から傍の森の中の小道に逸れると、周辺には明治天皇の立たれた場所を示すものを始めとする石碑や、富士浅間神社の祠などが立ち並んでいた。

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 この峠の一帯はかつて、松本盆地一帯を領有する信濃守護であった小笠原長時の軍勢を武田信玄が破った、塩尻峠の合戦の舞台である。

 信玄が諏訪郡を領有して以降、この塩尻峠を境にして対立し、小競り合いを繰り返していた小笠原長時は、天文17年(1548年)2月14日に上田原の合戦で信玄が村上義清に大敗を喫し、その陣営が動揺した隙に乗じて、積極的に離反攻撃や諏訪郡に対する攻撃を仕掛けるようになった。

 そんな最中の7月10日、西方衆という諏訪湖西岸の土豪らや、諏訪氏の一族である花岡氏、矢島氏などと内通しながら、小笠原長時の軍勢は再び諏訪へと動き出した。これらの離反の報を受けた信玄はその日のうちに軍を動かし始めるも、ゆっくりと動いたが故に18日になって漸く諏訪郡へと達した。しかしその後急激に進軍速度を速め、19日の早朝6時、塩尻峠に構えられた長時5000の軍勢に奇襲攻撃を仕掛けた。

 それまでの信玄の遅い行動が故に油断しきっていた長時軍は、まさかこれほど早く敵が来るとは思わず、寝起きで意表を突かれて武具をつける暇もなく撃破された。峠の戦闘だけで長時軍は千余の将兵を討ち取られて敗走、その後諏訪郡内の残敵も掃討され、諏訪郡は再び信玄により平定されたのであった。

 信玄はこの戦いで上田原の敗戦の雪辱を果たし、この後次々と失地回復および領土拡大を実現することとなる(『武田信玄』, pp.38-41)。

 そのような歴史に想いを馳せながら小道を更に進んでいくと、不意にコンクリート製の巨大な展望台が現れた。これまで、ここは峠であるというのに、森に閉ざされているが故にあまり景色が良く無いことに内心不満を抱いていた私は、期待を抑えきれずにその展望台の階段を駆け上った。

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 過ぎ来し方を振り返って眺めれば、雄大諏訪湖とそれを囲む盆地の市街が一望される。湖面の片隅に照り返った夕日も美しい。

 そしてこれから進む先、西の方を眺めれば、遥かな山際、乗鞍岳の方向に赤い夕日が沈んで行く。左手遠方には御嶽山と思しき山影もあった。

 私は思いがけずに出会ったこの絶景に強く感動を覚えながら、しかし当てはなくとも急ぎ旅であるので、後ろ髪を引かれつつも展望台の階段を下り、再び車に跨った。展望台の上で、左右の景色の美しさに気を取られ過ぎて、眼下に広がる塩尻峠の合戦の古戦場の地形を注視できなかったことは少し心残りである。

 しかしここから先の中山道の下り坂は急勾配であった上に、路面の舗装がガタガタで酷い悪路であったので、自転車でスムーズに走り下ることはとても怖くて出来なかった。そのため私は嫌々ながら自転車を下り、慎重に押して進んだのであった。

 少し坂を下ったところに、かつての大名や旅人たちの休憩所であった、茶屋本陣の跡があった。現在ここに立っている家屋は、おおよそ築200年のものであるという(『中山道69次を歩く』, p.78)。家屋には未だ生活感があり、誰かが現在進行形で住んでいるようであった。その向かいには、明治天皇の御膳に用いた水を汲んだ井戸と、それを示す石碑があった。

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 そこから更に進んだところには、東山一里塚の跡があった。この一里塚は道の南側の盛り土が現存しており、その天辺には植樹が為されていた。一里塚というものは江戸時代当時は、盛り土の上に立ち木があるものであったので、その再現をしようとしているのだろうか。しかし周辺の植生を見ると針葉樹が多く、極相林であるように見受けられるので、素人目ではあるが、この木がしっかりと日光を浴びて育つことが出来るかが気がかりだ。とはいえ、苗を見る限りではこの木も極相種と同じか、似たような陰樹であるように見えたので、周囲に溶け込んで見た目が地味になりそうだが、無事に育ちはするであろうか。

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 すっかり日は落ちて来たが、更に車を進めて長い坂を下り、国道20号線にタッチした後、またすぐに右へ逸れて旧中山道へと入る。鬱蒼とした林の中を走る道を抜け、再び出会った20号線を渡り、更に直進して長野自動車道の上に架かった橋を渡って越える。古い民家が続く坂道を下っていき、途中を左に曲がると、畑の片隅に首塚・胴塚がある。

 この首塚は先述の塩尻峠の合戦において、首実検の後に野ざらしで残されていた、小笠原方の戦死者の遺体を見て、哀れに思ったこの柿沢の地の村人が埋葬して建立したものであったが、戦国末期以降は草叢の中に埋もれ、長らく忘れ去られていた。しかし昭和10年になって、同じく柿沢の熊谷善蔵という人物がその荒れ模様を哀れに思い、こうして再建したそうである(出典:現地の石碑)。

 この首塚を訪れる際、私は現地の案内表示が無かったためか、はたまたあったが暗闇で見落としてしまったためか、旧中山道をどこで曲がれば首塚に辿り着けるのかが分からず、坂道を行ったり来たりしてしまったように記憶している。そうならないように、Google Mapでは「首塚」と検索すれば場所が表示されるので、訪れられる方はそれを頼りに向かわれると良いだろう。

 

塩尻宿

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  やがて旧中山道は153号線に合流し、かつての塩尻宿の宿場町を横断して西へと走るのであるが、この塩尻宿の遺構に関しては、暗闇のため、ライトアップされた看板以外はしっかりと見て回ることが出来なかったので、 また次に訪れた時に回すこととした。

 その後中山道の道筋を逸れ、JR塩尻駅の方面へと進み、宿へと向かった。道中は夏祭りか何かの時期であったようで、商店街の沿道にちょうちんが掲げられていて幻想的であった。

 宿泊したのは駅の西側にある「すがの旅館」であった。宿へ向かう途中、線路をくぐる辺りで自転車の後輪がパンクしてしまい、チェックインの時間に大きく遅れてしまったのであるが、親切に対応してくださって非常にありがたかった。夕食は宿で採ったのだが、うなぎにご飯に更にうどんまで付いて、量がかなり多く、少食の私は食べきれずに残してしまったのが申し訳なかった。味の方は良好であった。

 この夕飯の際に、お湯の入ったポットと急須が出された。急須の方からお茶をコップに汲もうとしても中身が出なかったので、仕方なくお湯をそのまま飲んでいたのであるが、後々になってよく考えたら、急須の中に茶葉が入っており、そこにお湯を入れて茶を出すというものであった。この話を書くと人々に世間知らずとして謗られるであろうが、面白い思い出なのでここに書き残しておく。

 その晩、パンクした後輪の修理を行い、また塩尻峠の下り坂と、その後の旧中山道の林間の道で二度ほど転倒した際の体の傷に絆創膏を貼ってから就寝し、翌日の出発に備えた。

 

2日目(塩尻木曽平沢)の記事:こちら

3日目の記事:執筆中


参考文献

岸本豊『改訂版 中山道69次を歩く 究極の歩き方120』(信濃毎日新聞社, 2011年11月28日)

下出積與『読み直す日本史 木曽義仲』(吉川弘文館, 2016年11月1日)

笹本正治武田信玄 芳名天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房, 2005年11月10日)

ほか現地の案内板、観光パンフレット